この青い空の下で(7)
ここのところ、イーグルの様子がおかしい。
はっきりとは言えないが、どことなく落ち込んでいるような気がする。
気になったが、どうしたものかわからず、ランティスは悩んでいた。
そんな時、イーグルから
FTO修理のための材料が足りないと聞き、ランティスは一緒に沈黙の森に行くことにした。何だかんだでこれまでイーグルは城の外に出たことがなかったし、沈黙の森は城から少し離れているので、精獣に乗っていくことになる。
イーグルに「精獣召喚」の魔法が使えるとうっかり話してしまってからというもの、毎日のように乗せてくれとせがまれていたのだ。
しかし、イーグルは乗馬の経験がないというし、「何もない所で転ぶ人間を馬に乗せて大丈夫なのか」という心配がどうしても先に立ち、ランティスはイーグルの要望を叶えるのを躊躇っていた。
そして、それはそれで、またランティスの罪悪感を刺激する。
イーグルが、澄んだ金色の瞳をあんなにも強く輝かせて頼むのに、それを拒絶するのはとてつもなく悪いことをしているような気がする。同時に、自分が何だかとても意地悪な人間になってしまったような気がして、断るたびに忸怩たる思いにかられるのだった。
イーグルの望みを叶えてやりたい。だが、落馬しないか心配だ。
しばらくそんな悩みを抱えていたが、ようやく決着がついた。
イーグルの喜ぶ顔が見られるだろう。
もちろん、その時には細心の注意を払わなくてはならないが。
イーグルは、すぐに精獣と仲良くなった。
エメロード姫のように。
中庭でエメロード姫とイーグルが一緒にいるところを見かけたことがある。
二人はよく似ていた。
光が二人のもとに集い、舞い踊っているように見えた。
さながら空から訪れた太陽が、セフィーロ全てを光に包み込もうとするように。
それはとても美しい光景だった。
だが、同時に、どこか哀しいものにランティスには思えた。
なぜかはわからないけれど。
それは、空を見上げるイーグルを見た時の気持ちに似ていた。
美しく、それでいてどうしようもなく胸が苦しくなる、あの表情。
イーグルが精獣と戯れる光景は、見ていると温かく幸せな気持ちになれる。
けれど時折何かがランティスの胸を刺すのは、あの笑顔の奥に、切ない瞳が隠れているのを知っているからかもしれない。
精獣に乗り空を駆けるイーグルは、本当に嬉しそうだった。
ランティスの危惧した通り、イーグルは辺りの景色に気を取られ、一度ならず落馬しかけたのだが、幸い大事には至らなかった。
ふと思う。
オートザムに「柱」という仕組みがあれば、イーグルは柱になって、その願いを叶えることができるだろうに、と。
しかし何故か、ランティスは、そうなることを望まなかった。
イーグルが柱になることを、望まなかったのだ。
―何故だろう。イーグルの想いがどれだけ強いか、知っているはずなのに。
答えを出す事が出来ないままに、二人は沈黙の森に到着した。
今度は「魔物」の存在に目を輝かせるイーグルに、ランティスは苦笑する。
見て楽しいものではないと、話しているはずなのだが。
しかし、純粋な好奇心、戦士としての興味、いずれをとってもイーグルは、百年前のランティスを上回っているようだった。
そんなイーグルを連れて、森に足を踏み入れる。
イーグルの強さは知っているので、魔物だけなら特に心配はしていない。
転ぶこと、落馬することの方が余程心配だった。
特に、転んだところを魔物に襲われでもしたら、困ったことになる。
ランティスは、魔物の気配よりもむしろ、イーグルの足元に注意していた。
そこへ突然生じた気配。―魔物。
無論苦もなく倒したのだが、戦闘能力を失ったそれを、イーグルがしげしげと見下ろしている。
何か考えこんでいる様子だった。
哀しげな瞳。
呟くように漏れる言葉。
セフィーロにも不安や恐怖があることを、イーグルは知ってしまったのだ。
魔物が不安の具現したものであることは、言わない方がよかったかもしれない。
イーグルが、セフィーロを理想郷のようにみなしているのを知っていたはずなのに。
自分が今、イーグルの大切にしていた宝物を壊してしまったような気がして、ランティスはひどく後ろめたい気持ちにかられた。
しかし、幸か不幸か、砕けてもなお、彼にとって、それは大切な宝物であり続けたのだ。
イーグルの、空を見上げる瞳は、いささかも輝きを鈍らせることはなかった。
哀しさと切なさが増したような気はするけれども。
そして、もうひとつ心に焼き付いた、イーグルの言葉。
「しかし、姫自身は、不安など全く感じることはないのでしょうか。
心が全てを決定する世界が、これほどまでに美しく平穏なまま保たれているというのは、どこか不自然な気も……」
―そんなことは、考えたことがなかった。
ランティスはずっとエメロード姫に仕え、守ってきたけれど、エメロード姫はいつも優しい微笑をたたえていて、それ以外の表情を浮かべるのを見た事がない。
セフィーロはいつも美しく、空はどこまでも澄んで青かった。
それはごく当たり前のことで、これからもずっと続くのだと思っていた。
百年も、千年も。
だが、それは本当に、当たり前のことだったのか。
これだけの世界を創り、支え続けるのは大変なことだということは知っていた。
しかし、エメロード姫だから、「柱」だからと、今までそれを疑問に思いもしなかった。
姫の喜怒哀楽や、祈ることが姫にとって負担かもしれないなどと、想像すらしなかった。
だが、姫は、「柱」である前に、一人の人間ではなかったのか。
人間である以上、セフィーロの者達が時に感じるような不安や悲しみを抱くこともあるはず。
なのに、セフィーロはこんなにも美しい。
今まで自分はそれを純粋に、曇りのない笑顔のようだと思っていたが、その奥に哀しみが隠されていないと、どうして言えるだろう。
イーグルのあの瞳のように。
この世界には、どこか無理がある。
もしもイーグルが柱になったら、と先程考えた。
そしてその時、心に浮かんだのは、それは嫌だという思い。
イーグルは「柱」に足る心の持ち主。その強さはエメロード姫に勝るとも劣らない。
なのに彼を「柱」にすることを望まなかったのは、暗に気付いていたからではなかったか。
周囲はともかく、それがイーグル自身に幸福をもたらすものではないことを。
イーグルが望んでも。
エメロード姫が望んでも。
「柱」になることは、幸せにはつながらないー。
その認識は、ランティスを愕然とさせた。
イーグルも、そのことに気付いたかもしれない。
それでも彼がセフィーロに向ける瞳は変わらなかった。
セフィーロは彼の憧れ。彼の理想。
そこに想い描いていたものと違うものを見つけても、それでも彼は、青い空を追い続けるだろう。
それは、果たして彼にとっていいことなのだろうか。
宝物は、もうないのに。砕けてしまったのに。
理想郷は存在しない。
そして、今またランティスも、イーグルとはやや違った意味合いながら、セフィーロが理想郷ではなかったことに気付いてしまった。
これまで当然のように思ってきたこの空は、一人の人間の負担の元に生み出されていた。
それをこのまま受け入れるのか。
イーグルなら、どうするだろう。
彼のことだ、可能ならば代わりにその責を引き受ける、と言うかもしれない。
もちろんそれは不可能なのだが、このまま青い空を求め続けて、もしも自分一人の負担でーいや、犠牲といってもいいかもしれないーそれが叶うのだとしたら、喜んでそれを実行してしまうような気がする。
だが、ランティスは、それは嫌だった。
イーグルが苦しむのは嫌だった。
エメロード姫が苦しむのは嫌だった。
しかし、どうしたらいいのかランティスにはわからなかった。
枝の隙間から、青い空が見える。
しかし、これまでのように、それをただ美しいとは思えなかった。
理由は明白で、それを断ち切るように、ランティスは、襲い来る魔物を次々と両断した。
その日の夜。
沈黙の森で野宿することになったイーグルとランティスは、少し開けたところで寝支度をしていた。
夜空には無数の星が輝き、セフィーロの夜を美しく彩る。
だが、その日のランティスには、星の瞬きが、まるで涙のように見えた。
あれは、エメロード姫の涙だろうか。
それとも、この空の彼方でイーグルが、青空を求めた人々が、流した涙だろうか……。
物思いにふけっていると、おもむろにイーグルが口を開いた。
「ランティス……どうかしたのですか?
この森に入ってから、ずっと何か考え込んでいるようですが」
見ると、イーグルが控え目に、だが心配そうな色をたたえてこちらを見ていた。
「……いや。お前こそ、ここ最近ずっと元気がないようだが。
何か困った事でもあるのか」
この機会にと、ランティスは思い切って尋ねてみた。
イーグルは、少し驚いたような顔をしたが、やがて苦笑した。
「貴方には、かないませんね。
……実は、最近、エメロード姫とあなたの兄上が、哀しそうなお顔をなさっているのをよく見かけるんです。
それも、僕の顔を見た時にそういう顔をなさることが多いようで……でも、どうしてだか、わからないんです。
ランティス、あなたは気付いていましたか?」
今度はランティスが驚く番だった。少し考えて、答える。
「いや。だが、もしそうだとしたら……それは、お前の奥にある哀しみを見てしまうからではないかと思う」
その言葉に、イーグルの表情が一瞬固まる。
「僕は、幸せですよ。このセフィーロを直に見て、触れることができたのですから」
あなたとも仲良くなれましたし、と言って微笑むが、一瞬だけ金の瞳が揺れたのを、ランティスは見逃さなかった。
「……一番強い『想い』は消せない」
そう言って、ぽん、とイーグルの肩をたたくと、イーグルはまた笑った。
胸の痛くなるような笑いだった。
ふと思う。
今の自分の顔も、イーグルには、同じように見えているかもしれないと。
空は、相変わらず誰かの涙を流し続けていた。
翌朝、こんな魔物の住処でさえいつもと同じようにぐっすりと朝寝坊しているイーグルを起こすと、イーグルはいつもと同じように「おはようございます」と微笑んだ。
そして、昨日と同じく、魔物を倒しながら森の奥へと進んでいく。
魔物が昨日よりも少し強くなっているような気がするのは、気のせいだろうか。いや、それ以前に、昨日の魔物からして、この前魔物退治に来た時より強かったような気がするが……。
ランティスは不審に思ったが、答えを出す前に目的の場所に着いてしまった。
沈黙の森の中程にそびえたつ大きな木。
その枝に、無数のクストがなっていた。
昼の陽を浴びて、きらきらと光り輝いている。
「これが……クスト、ですか?」
その光景にしばし見入っていたイーグルが、夢見るような口調で問うた。
「木になるとは、知りませんでした。綺麗ですね……」
そのクストよりもさらに美しい黄金の瞳を輝かせ、イーグルは微笑む。
この瞳を曇らせたくないと、ランティスは心から思った。
自分にイーグルの願いを叶える力がないのが口惜しい。
イーグルがクストの方に歩き出そうとしたので、ランティスは慌てて言った。
「気を付けろ」
「え?」
「クストは、真実を映す鏡とも呼ばれている」
訝しげに振り返るイーグルに、ランティスは言った。
「クストを採る時に、『真実』が映し出される。
今気に掛かっていることに関する真実、それも知りたくないと思う類の真実だ。
特にそれがない場合は、『この世で最も見たくないもの』を映す。
どちらにせよ、それは採る者に苦痛を与える。心して挑んだ方がいい」
イーグルはしばらく考えるふうを見せたが、言った。
「……ということは、今僕に知りたい事があれば、それが思わしくない場合に限り、知ることができるというわけですか」
射抜くような、強い瞳。
知りたくなかったと思うような事柄でも、イーグルはむしろ進んでそれを知ろうとする。
「ああ」
短くランティスが答えると、イーグルは戦士の表情でクストに手を伸ばす。
白い輝きに触れた時、一瞬イーグルの手が止まり、黄金の瞳に苦しげな色が浮かんだ。
しかし、そのままクストをつかむ。
目的のものを手にしてこちらを振り向いたイーグルは、何事もなかったかのように柔らかな微笑みを浮かべていた。
そしてクストは、未だ形を持たぬまま、あらかじめイーグルに持たせておいた宝石の中に吸い込まれていった。
クストは、一度に一つしか手に入れることができない。
そのかわり、その一度で、必要な量が手に入る。
手にした時は、どれも同じ、掌に載るほどの大きさだが、取り出した時には巨大な質量になっていることだろう。なにしろ、あの白い機体を修理するのだから。
クストが無事イーグルのものになるのを見届けたランティスは、自分もクストに手を伸ばした。
昨日からずっと心にかかっている疑問の答えがそこにないかと考えて。
「大丈夫ですか?」
ふと気付くと、イーグルが心配そうな顔でこちらを見ていた。
自分の手を見ると、白いものが光っている。
クストを手に入れようとして、茫然自失の状態に陥っていたらしい。
「ああ」
ランティスはうなずくと、手にしたクストを木の根元に埋めた。
必要がない時は、そうすることになっているのだ。
イーグルはそんなランティスをじっと見つめていたが、何も言わなかった。
「じゃあ、行きましょうか」
微笑むイーグルが、ランティスには眩しかった。
これまでクストを採りに行った時には、「この世で一番見たくないもの」が見えていた。
気がかりなことなど何もなかったから。
この世で一番見たくないものは、エメロード姫とザガートが、傷つき倒れている姿だった。
それを見て、自分が何を大切に思っているのかを知った。
それを見るたびに、強くならなくてはという思いを新たにした。
だが、今日見えたものは違っていた。
今日見たのは、「不安」ではなく、「真実」。
エメロード姫が、涙を流していた。
ザガートが、そんなエメロード姫を見ていた。
手を伸ばすのに、届かない。
エメロード姫を見つめるザガート。
ザガートを見つめるエメロード姫。
二人の想い。
決して叶えられることのない願い。
これは真実。
それは禁忌。
二人の哀しい瞳が、頭に焼き付いて離れない。
それは、イーグルの瞳に似ていた。
焦がれるように求めているのに得られない。
青い空。自由。ザガート。エメロード姫。
求めるものは違えど、その想いは同じ。
胸を焦がす切なさも、苦しみも。
二人はイーグルの瞳の向こうに、想い人の哀しみを見ていたのだろう。
硬く、鋭すぎる願いの欠片で傷ついた瞳。
だが、彼等が自分の願いを捨てることはあるまい。
―一番強い想いは消せない。
その想いも、苦しみも、決して消えることはない。
何故、彼等が苦しまなくてはならないのか。
あんなにも強く想っているのに、何故叶わないのか。
ランティスはつと空を見上げた。
曇っていると思ったのだ。
だがそれはどこまでも青く、美しかった。
2007.7.30
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