この青い空の下で(5)

 

 

 

 外に出ると、爽やかな風が吹いていた。

 柔らかな感触が心地よい。

 祈りの間から出たザガートは、空に輝く太陽を見上げて瞳を細めた。

―近頃一際明るく暖かくなったように感じられるが、気のせいだろうか。

 太陽だけではない。樹々はより青々と生い茂り、それまで何もなかったところに美しい花々が次々と咲き誇るーそれも青と白の二色の花だけが。

 しかし、セフィーロの柱たるエメロード姫に、特に変わった様子は見受けられない。花の色のことを考えても、これらを為したのはエメロード姫ではないだろう。
 だとすると、変化の原因はセフィーロにいる者。

 セフィーロは意思の世界。柱に比べれば微々たるものだが、セフィーロの地にあるものの心は、この世界に影響を与える。
 不安や恐怖は魔物を生み、喜びは花を咲かせる。

 だが、エメロード姫の祈りのもと、それらは一定の秩序の中に組み込まれ、変化があったとしても、それは非常に緩やかでささやかなものになる。
 それがこのわずかな期間に、目に見える変化が現れたのだ。

 そう、わずかな期間。注目すべきはそこなのだ。

 最近の最も大きな出来事といえば、他国からの訪問者、あのイーグル・ビジョンの来訪に他ならない。

 間違いない。この変化をもたらしたのは彼だ。

 普通なら有り得ないことだった。
 柱でないものがセフィーロに与えうる影響は著しく制限される。
 なのに瞬く間にセフィーロのそこかしこを花で覆い、太陽をより輝かせー並の人間にできることではない。自分にも無理かもしれない。

 とても強い心の持ち主だ。とても。

 それは初めて会った時から感じていたことだった。
 あの黄金色の瞳に宿る光の強さ。
 それは青空の下では消えてしまう月の灯ではなく、真昼の空にあってなお一人直視できぬほどの輝きを放つ太陽の光であった。

 本当に強い、心の持ち主。

 もしエメロード姫がいなければ、イーグルがセフィーロの柱になっていたのではないか。

 そこまで考えた時、ふとある思いがザガートの脳裏をよぎった。

 それはほんの一瞬のことで、形を持つ前に霧散してしまったけれど。
 決して考えてはいけないことだと、無意識のうちに察したのかもしれない。

 だが、一度浮かび上がった思いは、重いしこりとなって残った。
 それは心の奥に沈んでいき、決して消えはしないのだった。

―もし、エメロード姫が柱でなかったら。

―そうならよかったのに。


 無意識に思いを封印し中庭を歩いていると、その一画に金色の光が集っているのが見えた。エメロード姫の姿は、どこにあっても、真っ先にザガートの視界に飛び込んでくる。
 そしてその隣に座っているのは、イーグル。
 何を話しているのか、二人ともにこやかに微笑み合っている。

―似ている。まるで姉弟のようだ。

 エメロード姫にはフェリオという弟がいるが、似ているとは言い難い。それよりも、この異国から来た青年の方が、ずっとエメロード姫に似ていた。

 その優しい微笑み、凛と響く声、気品、強い意思、そしてその澄んだ瞳の奥に宿る……何だろう。

 いつもエメロード姫に接した時に感じるものを、この青年にも感じる。しかしそれが一体何なのか、ザガートにはわからなかった。

―それは、考えてはいけないことだったから。


 いつの間にか隣りにランティスが立っていて、ザガートと同じように花畑の中の太陽達を見守っていた。
 とても穏やかな表情をしている。
 彼は近頃、雰囲気が柔らかくなった。
 ―近頃。
 そう。これも、あの金色の瞳を持つ青年が来てからだ。

「ランティス。……最近、随分と楽しそうにしているではないか。
 あの者の影響か?」

 微笑みながらザガートが言うと、ランティスは一瞬だけこちらに視線を向け、また太陽達に視線を戻した。

「…そうかもしれない」

 答えるランティスの口元には、ひどく珍しいことに、うっすらと笑みが浮かんでいた。

「そういえば、お前は気付いているか?最近のセフィーロの変化に。
 太陽はより明るく暖かくなり、あちこちに青と白の花々が咲き乱れる。
 セフィーロが、より生き生きと輝いている。
 あの青年の力だと思うか?」

 ランティスは特に驚いたふうもなく、

「イーグルは青い空が好きだと言っていた」

 とだけ言った。
 それは確信を越えて「知っている」という口調。

 ザガートはあらためて中庭でくつろぐ二人を見遣った。

 エメロード姫とイーグル。

 世界を照らせる強い輝きを放つ瞳。

―本当に、似ている。

 二人を見ていると、イーグルがエメロード姫の創り出した世界を補強し輝かせているのは、ごく自然なことに思えてくる。

―もしも柱が彼だったら。

 再び胸底からある思いが湧き上がりかけた時。

 二人がこちらに気づき、手を振るのが見えた。

 優しい微笑みが、たちまち心を満たしていく。

 陽の光がとてもまぶしかった。


 それからまた数日がたった。

 エメロード姫とイーグルが並んでいるのを見てから、なんとなく心がざわめいている。

 なぜかはわからない。

 だが、久しぶりにできたこの時間、イーグルに会ってみようと思ったのは、実はこのざわめきの正体を突き止めたかったからなのかもしれない。
 無論、ランティスの話でイーグルに興味を持った、というのもあるが。

 ザガート自身は、ランティスと違ってこれまであまりイーグルと言葉を交わす機会がなかった。
 しかし、城を歩いていると、イーグルとランティスが一緒にいるのを見かけることもある。そんな時、大抵二人は中庭を散歩していたりテラスでお茶を飲んでいたりした。
 ランティスはまだ百年足らずしか生きていないというのに、妙に年寄り臭いところがある。もっと若いイーグルは退屈するのではないかとちょっと心配になったが、ザガートが見かける彼はいつもにこにこと楽しそうに微笑んでいて、幸せそうだった。

 ランティスも、イーグルをとても信頼しているように見える。

 出会ってすぐ、ランティスがイーグルに武具一式を返してしまった時は、いささか心配になったものだ。
 少し信頼しすぎているのではないか、騙されているのではないかと。

 ザガートはさほど猜疑心の強い方ではなかったが、ことはエメロード姫に関わるのだし、弟があまりに簡単に警戒心を解いてしまうのを見ては、かえって用心深くならざるを得なかった。
 それでもランティスが決めて譲らないのを見て、ザガートはそれを信じることにした。それは導師クレフも同様だ。

 セフィーロで一番長くイーグルと接しているのはランティスなのだし、何より、ザガートは弟を信じていた。

 ランティスの昼寝場所に行くと、大きな木の上で、イーグルとランティスが気持ちよさそうに眠っているのが見えた。

―戦士であるランティスが、他人の側で熟睡している。

 それは驚くべきことだった。ここまでランティスが信頼を寄せ、心を許した人物は、兄であるザガートの他にはいなかったから。

 そっと近づくと、気配に気付いたのか、イーグルが目を覚ました。ランティスはまだ寝ていたが。

「こんにちは」

 にっこりと微笑みかけてくる。
 ランティスからは決して見られないような笑みだったが、こうして弟と並んでいるのを見ると、何故か彼がランティスの双子のように見えてくる。
 姿形は少しも似ていないのに。魂が似ている、とでも言うのだろうか。もう一人の弟のような親しみを覚える。

「セフィーロの居心地はいかがだろうか」

 ザガートの問いかけに、イーグルは笑顔のまま答える。

「とても快適です。色々とご配慮いただき、ありがとうございます。
 弟君にも、大変よくしていただいて」

 と、隣で寝ている黒ずくめの青年を見遣る。

「いや、いつも寝てばかりで申し訳ない。
 貴方を退屈させていないだろうか」

 苦笑するザガート。

「いえ、僕もお昼寝は大好きですから。
 それに、ここには不思議なものがたくさんありすぎて、こちらに来てから退屈などしたこともありません」

 くすくすと笑いながら答えるイーグル。

「そう言って頂けるとありがたい。

 ……貴方が来てから、弟は楽しそうだ。
 弟が他人に興味を持つのは珍しいから、私も嬉しい」

 ゆっくりと、ザガートは微笑む。

「そうなのですか?」

 確かにあまりお喋り好きには見えなかったけれど、とイーグルは思う。

「ええ。ランティスはどうも小さい頃から口数が少ないせいか、誤解を受けやすいようなのです。
 だからこれまで、心を分かち合える友にも巡り会えずにいた。
 しかし、ランティスが今こうして貴方に心を許しているのなら、兄としてこんなに嬉しいことはない。ありがとう。
 迷惑をかけるかもしれないが、どうかこれからも、弟と仲良くしてやってほしい」

 そう言うザガートの言葉には、弟への慈愛が溢れていた。

「こちらこそ、弟君にはいつもお世話になりっぱなしです。
 ランティスといると楽しくて、ついつい色々我儘を言ってしまうんです。
 セフィーロに来れたこともですが、ランティスと友達になれたことは、何より幸福だと思っています」

 言って、イーグルは極上の笑みを浮かべた。
 本当に嬉しそうな、幸せそうな笑み。

 それを見て、ザガートも微笑んだ。

「そう言えば、この前エメロード姫と会われたようですね」

 ふと思いついて、ザガートが問うてみる。

「ええ、偶然。本当に綺麗な方ですね。
 ずっと、どんな方だろうと考えていたのですが。
 この青い空と同じ、綺麗な青い瞳……」

 そう言って、イーグルは頭上に広がる空を見上げた。


―太陽が、空に帰りたがっている。


 その時ザガートは、イーグルがどういう人間かわかったような気がした。

 足元に揺れる花の青は、セフィーロの青。

 白は、それを求める一点の曇りもない純粋な心。

 ランティスもそれに気付いていたのだろう。


「セフィーロは……美しいですね」


 切なげなイーグルの笑み。
 それを見てわかった。

 いつもエメロード姫と接していながら感じていたこと。

 姫に微笑みかけられると、いつも胸が痛くなった。

 これまではそれが何かわからなかった。わからないようにしていたのかもしれない。だが、今、ようやくわかった。

 あの澄んだ瞳の奥に宿るもの。

 その微笑みの底にある寂しさ、哀しさ、切なさ。

 望んでも得られないものへの希求。

 あの時胸がざわめいたのは、イーグルの中にエメロード姫を見たからだ。
 イーグルの中にある想いが、エメロード姫の中にもあることに気付いてしまったからだ。

 オートザムでは、青い空は見ることができないのだと聞く。
 それをずっと、遠い国から想い続けていたのだろうか。

―では、エメロード姫は?

 姫は何を望んでいるのだろう。

 柱が願うのは、セフィーロの平和と秩序。

 でも、エメロード姫自身は?


―もし、エメロード姫が柱でなかったら。

―……ソウナラヨカッタノニ。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 オートザムから来たという男の人に会った。

 強い人。

 とても強い願いを持っていて、でもそれが叶えられずに苦しんでいる。

 私の願いは、このセフィーロの人々が幸せであること。

 だから、この世界が美しく平和であるように、いつも祈っている。

 彼の願いも叶えてあげたいけれど、私の力ではそれはできない。

 でも、彼ならきっと自分の望みを叶えるだろう。

 だって、私と同じぐらい強い心を彼から感じるから。

 そのせいだろうか、彼には不思議な親しみを感じた。

 まるで、もう一人の自分に会ったみたいに。

 でも、彼からは私にないものも感じた。

 瞳の奥に秘めた、燃えるような熱と激しさ。
 それは私にはないもの、知らないもの。
 でも、この激しさがあれば、どんな遠くのものも掴むことができるのではないかと思う。

 ……少し、羨ましい。

 彼はもう一つ、私にないものを持っている。

 はっきりと言葉にはできないけれど。

 彼は故国を想いながらセフィーロを想うこともできるし、好きな人と結ばれることも、きっとできるだろう。

 それは、私には許されないことだから。

 でも、私はそれでいい。セフィーロの人々が幸せであることが、私の幸せなのだから。

 それでも、ふと思う。

 もしも私にそれが許されたなら、と。

 そしたら私はどうしたいのだろう、と。

 そうしたら、真っ先に「あの人」の顔が浮かんできた。

 何故だろう。何故「あの人」の顔が浮かんでくるのだろう。


 私は……ひょっとしたら怖ろしい罪を犯そうとしているのかもしれない。

 

 

 

2007.7.11

 

 

 

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