緋色の涙(2)
イーグルが捕まったらしい。
あの時、城を覆った光。
王冠に残された、エメロード姫の最後の想い。
城内を席巻していた魔物達を消滅せしめた強烈な閃光は、その時まさにセフィーロ城に侵入してきたイーグルの意識をも奪ったのだ。
―イーグル。
誰よりも強い瞳をした、何より大切な友。
とりあえずは彼と戦わずにすんだことに、ランティスはほっと安堵の吐息を漏らした。
―柱は万能ではない。待っているのは、悲劇だ。
そんな自分の言葉にも、彼は首を振るばかり。
正直、彼の決意を覆すのは難しいと思う。
―イーグルの決意はわかる。
彼は全てを知った上で、この国に来た。
でも、ランティスは、願わずにはいられなかった。
イーグルを柱にはしたくない。
犠牲には、させたくない。
―決して。
そして同時に。
イーグルと刃を交えることもまた、したくなかったのだ。
しかし、イーグルが決意を変えないのであれば。
二人の願いが相反するものである以上、いずれ戦いは避けられない。
幸い、今のところは、どうにか戦いは回避された。
しかし、イーグルがこのままおとなしくしているとは思えない。
彼が動き出す前に、なんとかしなければ。
だが…どうすればいいのだ?
どうすれば、セフィーロの「柱」制度を終わらせられる?
―焦りだけが募る。
決して晴れることのない空を見やって、再びため息をついた時、ランティスは、ふと後ろに何者かの気配を感じた。
よく知っている気配。
まさか、これは。
振り返ろうとする間もなく、いきなり後ろから抱きつかれた。
「ランティス!」
薄茶の髪。思わず心の鎧を取り去ってしまいそうになる笑顔。
そして。強い輝きを宿した、金色の瞳。
「…イー…グル……か……?」
半信半疑といった面持ちで、ランティスは問いかける。
そう。その発する気配も、笑顔も。
よく知っている友のものだったが、今、目の前にいる彼は、ランティスの半分ほどの背丈しかない。
顔つきもどこか幼くて、まるで彼が子供に戻ったふう。
そんなランティスの戸惑いを察してか、彼はにこりと笑い、言った。
「ええ。僕は、…イーグルです。
でも、僕にはもう一つ、名前があるんですよ」
黙ってこちらを見つめるランティスに、彼は、笑顔のまま続けた。
「僕は、フロイ。
イーグルの心が生み出した、イーグルの心の一部です」
それで得心がいった。
なぜ、イーグルと同じ顔をしているのか。
イーグルと同じ気配を持っているのか。
しかし……なぜ。
そう思って、改めて彼をよく見ると、彼が血を流していることに気付いた。
彼の両腕には鎖が巻き付けられ、そこからポタポタと、血が滴り落ちている。
いや、腕だけではない。―胸にも深い傷痕が。
小さな体から、彼は、血を流し続けている。
言葉を失ったランティスに気づき、フロイは微笑んだ。
「僕は…イーグルの心の一部。
あなたを好きだという、イーグルの心です。
でも、イーグルは、セフィーロ侵攻を決意した。
その時に、本当は、僕は消えなければならなかったのです。
でも、イーグルには、僕を消すことはできなかった。
ただ、閉じこめることができただけ。
でもそれも、完全ではなかった」
言って、フロイは悲しそうに微笑む。
「イーグルの決意は僕を傷つけ、僕の存在はイーグルを傷つけた。
僕は、なんとしてもイーグルから離れなければならなかったのです。
イーグルのためにも、僕のためにも。
イーグルの中は…苦しくて。とても……苦しくて」
フロイは、そっと自分の胸に手を当てた。
深い深い、傷痕。
未だ血を流し続けている、そこ。
「…そうしたら。本当に、僕はイーグルと離れてしまっていたんです。
気がついたらイーグルの外にいました。
セフィーロの力が、僕を…形にしたのでしょうね」
フロイは、驚きに目を瞠るランティスを見つめた。
―自分がこうして彼の前に姿を現したことで、また彼を傷つけてしまうのだろうか。でも。
「僕は、もう、イーグルの中に戻ることはできません。
それは、僕にとってもイーグルにとってもよくない。
僕は…存在してはいけないのですよ。
……ランティス。あなたの剣で、僕を……消して下さいませんか?」
絶句するランティスを真正面から見上げ、フロイは、一瞬の微笑みの後、イーグルのそれと同じ瞳に強い意志の輝きを宿して、言葉を紡ぎ出す。
「僕は、ランティス……あなたが大好きです。
あなたの力になりたい。どんなことでも。
でも、僕にできることは、何もないのです。
今の僕は、あなたを傷つけるだけの存在。
それに、あなたはもう……僕のことは、嫌いでしょう?
それは……僕にも少し、辛いのですよ」
フロイは、とめどなく血を流す。
それは、友を想って流した血。
緋色の涙。
「僕はもう…存在してはいけないのです。
だから、ランティス……どうかその剣で、僕を楽にしては下さいませんか。
あなたを裏切り、傷つけてしまったことの代償を……これで払えるとは思いませんが」
そう言うと、彼は再びランティスに抱きついた。
そして、両の瞳から、涙をこぼす。
「……ずっと、会いたかったんです。
会って、謝りたかった。
そして……あなたの手で、葬り去ってほしかった。
あなたを傷つける、僕を……」
―これほどまでに。
これほどまでに、苦しんでいたのか。
―これほどまでに、自分の存在はイーグルを傷つけていたのか。
涙をこぼすフロイの頭をなでてやりながら、ランティスは、イーグルのことを思った。
実体化してしまうほど、強い強い想い。
それが……こんなにも、傷ついて。血を流して。苦しんで。
―己の消滅を願うほどに。
なのに、自分にはどうすることもできない。
オートザムでもそうだった。
彼はいつもランティスのことを気に掛けてくれ、安らぎを与えてくれた。
セフィーロを出てからーいや、セフィーロにいる時にも、あれほど心の安らいだ時はなかった。
本当に、かけがえのない存在。
しかし、自分は、イーグルに与えてもらうばかりで、彼に対して何もできずにいた。
それが口惜しくて。
けれど彼は、何も言わなくても、そんなランティスの気持ちをわかってくれた。
その笑顔で、温かく包み込んでくれた。
彼のために出来ることがあるのなら、どんなことでもしたい。
ずっと、そう思っていた。
しかし、イーグルは、セフィーロの柱になる道を選んだ。
それはすなわち、犠牲。
―それだけは、させるわけにはいかない。
だが、そんな自分の思いも、これほどまでに、イーグルを傷つけずにはいられないのか。
フロイから流れる血。
それは、自分がイーグルに流させてしまった血だ。
止めなければ、イーグルは傷つく。そして、いずれは、命までも。
しかし…しかし、止めても……傷つくのだ。
傷つけてしまうのだ。
ただ…自分は、イーグルに、己を傷つけてほしくない。
傷ついてほしくない。
それだけなのに。
「…イーグル。
…嫌ってなど、いない。憎んでも。
お前は…イーグルは、俺の大切な、友だ。
イーグルが何をしようと、何を思おうと、それは変わらない」
ランティスには、そう言って、強くフロイを抱きしめることしかできなかった。
―なぜ、この世にはままならぬことが多いのだろう。
なぜ。
なぜ。
そのやるせない想いに、肩を震わせながら。
「ありがとう……ランティス。
……嬉しいです。……とても」
フロイは微笑む。
自分が受け入れられたことに、友が未だ友情を抱いてくれていたことに。
それは喜びの笑み。無邪気な子供の微笑み。
しかし、微笑みながら、フロイは血を流す。
これはそんな優しい友を傷つけていることに対する、痛み。
フロイは微笑みながら血を流す。流し続ける。
―曇りのない笑顔がひどく、哀しかった。
2006.5.4
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