闇と栄光
第一章 嵐の前
マルチェロは、町外れの教会に足を運んでいた。
以前は週に一度だけだったのだが、最近では、それが毎日の日課になっている。
なぜならー「マイエラ夫人」が子供を身ごもったからだ。
「マイエラ夫人」は、マルチェロの父親の妻だが、マルチェロの母親ではない。彼の父親は、他の大人と違って、二人の女性と結婚しているらしい。
「マイエラ夫人」は母親のように奥の建物にいるわけではなかったが、マルチェロとはあまり顔を合わせたことがなかった。あちらが会うのを避けていたせいだろう。たまに会っても、なぜか目をそらされてしまい、話しかけてみても、どこかそっけない。特につらく当たられるわけではないけれど、どうも自分は嫌われているのではないかとマルチェロは思う。
でも、母に聞いたところによると、「マイエラ夫人」は決して意地悪な人ではないのだという。少なくとも、以前は明るく優しい人だったとか。ただ、少し気が弱くて、子供ができないことでいつも陰口をたたかれて苦しんでいたそうだ。それで、子供を見ると、つらくなってつい顔を背けてしまうのではないかと母は言っていた。
そういえば、一人淋しそうに窓辺に佇む姿を何度か見たことがある。その姿を思い出すたび、胸が苦しくなったのをマルチェロは覚えている。
でも、今、こうしてマイエラ夫人に子供ができた。
これでもう、マイエラ夫人はあんな淋しげな姿を見せることもなくなるだろう。マルチェロにも、笑いかけてくれるかもしれない。
それに、母親は違うが、父親が同じなのだから、その子はまぎれもなくマルチェロの兄弟になる。
そう。マルチェロに、弟が(妹かもしれないが)できるのだ。
それが楽しみで、マルチェロは弟が無事生まれるよう、こうして毎日教会に通っている。
父親も、妻の懐妊を知ってから、ずっとマイエラ修道院にお祈りに出かけているのだ。
未来は明るい光で満ちていた。
教会に着くと、その日は、いつもより人が多かった。
この辺りに住む人は、お祈りに行くならマイエラ修道院へ行く。
ドニの町にも教会はあるし、こんな場所の教会に来るのは、屋敷に住む人達だけだ。そのためだけに、この教会は建てられたといってもいい。
だから、いつもは閑散としているのだが…今日は、やけに人が多い。ドニの町の人達や、もっと遠くから来たのだろうか、見た事のない人達もいる。
……どうしたんだろう。
不思議に思って聞いてみると、なんと、マイエラ修道院の院長様が、直々に足をお運びになって、お話を聞かせて下さるのだという。そして、今日教会を訪れた一人一人に、祝福を与えて下さるのだとか。
(もしかして、僕にも……?)
マルチェロは、期待に胸を躍らせて、席についた。
間もなくやってきた院長様は、7歳のマルチェロと同じぐらい小柄で、おとぎ話に出てくる賢者のような、長い白い髭を生やしていた。そして、なんとも優しく澄んだ目つき。
……他の人とは違う。
一目で、それが分かった。
礼拝が終わった後、マルチェロは、オディロ院長に声をかけられた。
「ふむ……そなた…いくつになるのかのう?」
突然声をかけられ、マルチェロは緊張して答えた。
「7歳です。もうすぐ、8歳になります」
すると院長様は、目を細め、微笑んだ。
「そうかそうか。幼子よ、その年で教会に来るとは感心じゃのう」
マルチェロは、胸が熱くなるのを感じた。
父よりも、母よりも。これまで誰にほめられた時よりも、嬉しかった。
「あの…僕、もうすぐ、弟が生まれるんです。
祝福を与えていただけませんか、院長様」
その言葉に、院長は大きく目を見開き、じっとマルチェロを見つめた。
「そうか…ふむ……そうか……。
…………………。
幼子よ。もし…もしもじゃ、困ったことがあったら、マイエラ修道院を訪れるがよい。修道院の扉は、いつでも開かれておる」
「え……?」
院長は、何か言いたげだった。
が、それ以上は何も言わず、黙って微笑むと、マルチェロに祝福を与えてくれた。
「そうじゃ。一つ、面白いことを教えてやろう」
そう言うと、院長は、マルチェロの耳に顔を近づけ、囁いた。
「布団がふっとんだ!」
……………………。
「……は?」
マルチェロ、呆然。
「ううむ、これは駄目か……。では、これならどうじゃ。
木と牛で、祈祷師!」
「はあ………?」
これは一体、どう反応したものか。
マルチェロが困っていると、院長様、ため息をついて、言った。
「ううむ、これも駄目か……。いかんのう、最近の子供はどうもハードルが高くて……。
ああ、いやいや、こちらの話じゃ、幼子よ、付き合わせてすまんかったのう。
次に会うときは、もっと面白いネタを考えておくでな、期待して待ってておくれ。ふぉっふぉっふぉ」
そう言って、院長様は去っていった。
後には、呆然と佇むマルチェロが取り残された……。
数ヶ月後
もうすぐ生まれそうだという話を聞き、マルチェロは、落ち着かなげに、庭を歩き回っていた。
教会へ行こうか。
いや、ここで待っていたほうがいいか。
それともやっぱり……。
もう日も暮れようとしていたが、知らせを受けてからずっと、食事も取らずに教会と屋敷とを往復していた。
と、そこへ、いきなり背後から肩を叩く者があった。
「―よう。」
振り返ると、アンジェロだった。
「こんな時間に、どこへ行くんだ?」
教会だと答えると、アンジェロはふんと鼻を鳴らした。
「弟が無事に生まれるようにか?
…やれやれ。おめでたいやつだな」
そうして、にやにやと、いつもの人を小馬鹿にしたような笑みをうかべる。
「…どういうことだ」
思わずムッとして、マルチェロは声を低くした。
……アンジェロはいつもこうだ。
いつも、こうして人を馬鹿にした物言いをする。
マルチェロは、そんなアンジェロが嫌いだった。
「わからないのか?
…ま、弟が生まれりゃ、嫌でも分かるさ。
その時、お前がどんな顔をするのか、是非見てみたい。」
そう言うと、ニヤリと意味ありげな笑いを浮かべ、アンジェロは去っていった。
(嫌な奴だ……!!)
大人になって、自分が領主になったら、あんな奴、追い出してやるのに。
……それまでの我慢だ。
それより、弟が無事生まれたら、アンジェロの奴を近づけないようにしなくては。でないと、どんな悪い事を教え込まれるか、知れたものじゃない。
一つ深呼吸して、気を取り直したとき、にわかに屋敷の方が騒がしくなったのが耳に入った。
駆け回る、複数の足音。
「生まれた!」「男の子だ」
という無数の声。
え……
じゃあ……?
マルチェロは、胸が高鳴るのを抑えつつ、屋敷に走った。
(弟が…僕に弟が、生まれた……!?)
一刻も早く確かめたかったが、まだマイエラ夫人の部屋には通してもらえない。側の部屋で待つことになる。
しかし、いくら待っても誰もマルチェロに声をかけてくれる者はいない。
待ちくたびれて、マルチェロは少しうとうとしてしまった。
…それから、どれくらいの時間眠っていたのかは、わからない。
ぼんやりと目を開けると、もう外は真っ暗で、いつの間にか雨が降っていた。
(あれ…僕は……?)
徐々に意識が戻ってくる。
生まれたばかりの弟のことを思い出し、急にはっきり目が覚めた。
弟は、どうなっただろう……?
もう、会わせてもらえるのだろうか。
それとも、もう、夜中だからだめだろうか。
とりあえず、もう一度聞いてみようと部屋を出ると、丁度戸口の所に父と母が立っていた。
この二人が一緒にいる所を見るのは珍しい。
…父の顔を見るのは久しぶりだ。
思えば、マイエラ夫人懐妊の知らせを聞いたあたりから、ずっと会ってなかったような気がする。
その父が、母と何か話している。それも、二人とも、ひどく険しい顔つきで。母はなにやら涙ぐんでいる。
一体、どうしたんだろう……?
不吉な予感にかられ、マルチェロは顔を出すのをためらった。
だが、結局、自分から声をかけてしまった。
「あの…どうかなさったのですか」
その声に、二人は振り向いた。
「…お前か」
父の声は、これまで聞いたことのないほど冷たい響きを帯びていた。
「丁度良い。母と共に、今すぐここから出て行け」
「え……?」
マルチェロは、一瞬、何を言われたのかわからなかった。
ただ、まじまじと父の顔を見つめる。
……いつもと変わらない、父の顔。
「今日、私に正当な後継が生まれたのだ。だから、もうお前には用はない」
「正当な、後継……?」
頭がグラグラする。
「そう。私と妻の息子、ククールがな。」
……ククール。
「お前と違って、使用人などという卑しき血を引いてはおらぬ、私と妻の、正しき血を引いた、息子だ」
血……。
「でも…、でも」
声が、出ない。
「僕は…これまで、勉学も、剣術も、何一つ、疎かにしたことは」
無理矢理絞り出した声は、氷の声によって、無情にもかき消された。
「ふん。卑しき血を引くお前が、多少頑張ったところで、由緒正しき血を引くククールに、かなうわけがなかろう。
これまでは、妻になかなか子供ができなかったのでな、お前を跡取りにするしかないと思っていたが。
だが、ククールが生まれた以上、お前はもう、用済みだ」
僕は、用済み……
…ククールが、生まれた以上……
ククール………!!
「……ようやくわかったようだな。
そう。お前にもう用はない。母とともに、今すぐ出て行け」
(……違う。違う!違う!違う!!)
何かを大声で叫びたかった。
しかし、そのどれも言葉にはならず、全ては闇の奥にかき消えた。
どうすればいいのかわからなかった。
…呆然と佇むマルチェロ。
その目の前で、扉は固く閉ざされた。
「…その時、お前がどんな顔をするのか、是非見てみたい」
そう言っていたアンジェロの顔が、唐突に脳裏に蘇る。
……降りしきる雨の音だけが、いつまでも聞こえていた……。
2005.9.12
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