「屍鬼」の舞台

 

―村は死によって包囲されている。

 

 

外場

人口

およそ千三百人あまり。渓流沿いの谷間に四百戸ほどの人家が集まっている。
山間部に点在する集落の中で最大。

集落区分

上外場、中外場、門前、下外場、外場、水口
の六集落。

山の中(北山の裏側にあたる位置)に少し離れて山入という集落があるが、十数戸あまりある家の殆どは廃屋で、人が住んでいるのは二軒だけ。もともとは山に入る拠点となった集落だが、林業が廃れるにつれ住人も減って、現在残っているのは老人ばかり三人にすぎない。この山入地区は、門前に合併された。
ちなみに山入は、「溝辺町北西の山間部」にあたる。

地形

渓流によって開けた村を、樅の林が取り囲んでいる。

村の南は田圃ばかり。北から細く末広がりに拓ける村は、南の山に突き当たって閉じる。

村の南をバイパスが通り、溝辺町との間にインターチェンジができたため、近郊の大都市まで三時間で行ける。
国道は、南と東、二つの尾根で大きく迂回する。そのカーブに沿って歩くと、すぐ前方に短い橋が現れる。「外場橋」という名だが、村の人間には「国道の橋」で話は通じる。この周辺は、事故が多い。

【門前】
寺を出て石段下からの短いが急峻な坂道は、昔ながらの石畳で、それがほんの200mほど続いて、つづまやかながらも門前町らしき光景を作っている。千代の雑貨屋、小さな石屋に花屋、こまごまとした仏具などのと共に、村内で使う卒塔婆や棺を取り扱う三宝堂。門前町の出口に御旅所があるのは、そもそも神社が寺と一帯だった頃の名残。
なお、医院と寺は、丸安製材の材木置き場を隔てて隣にある。

【上外場】
上外場は川端の道に沿って長く北に延び、寺の南一帯に広がる門前の集落と複雑に入り混じっている。

【水口】

村道を下った南の方では、渓流の対岸に細長く集落が延びている。橋を渡ったそこが水口。

特産物

樅材で作られた卒塔婆
村は生まれた当初から死者のために祭具を作って成り立ってきた。村名は卒塔婆から来ている。

一時は卒塔婆だけでは立ちゆかずに棺なども作っていたが、今では木工所も減り、老人が手作業で卒塔婆を作っているだけで、その数ももう多くはない。木工が寂れた後は農業と林業、それも専業の家は徐々に数が減って、大半が兼業。

風習

今でも死者を土葬にし、火葬に対する抵抗が強い。村人はそれぞれが山の一郭に墓所を持ち、そこに亡骸を埋葬する。墓石はなく、そこが死者の住居であることを示す角卒塔婆が立つきり。

村には弔組と呼ばれる制度があり、葬儀社はない。いったん集落のどこかで不幸があると、近所の者は総出で行ってこれを助ける。弔組の代表である世話役は、葬儀に際しては世話役代表を務め、葬儀社に代わって一切を采配する。

気質

外場は特異で、近隣の集落の中でも異物。村は拓かれた当初から、付近の山村で孤立している。滅多に人も入ってこないし、出ていかない。
全ては村の内部で完結しており、村は生きるに部外者の助けを借りない。

旧外場の地縁社会というのがあって、これは結束が固い。戦後に入ってきた家もあるが、そういう家は余所者としていったん区別される。

行事

【祈年祭】旧正月に行う。下集落が担当。

【歳神祭】正月

【神幸祭】虫送りの直前にやる。下集落が担当。

【虫送り】
村から害虫や疫病を追い出すための儀式。人々は送るだけで、その終焉に立ち会ってはならない。立ち会っていいのは、面をつけて「人でない者」になった者だけ。別当を弔い、祀り捨てる。正式には御霊会といい、悪霊を祀って遠ざける。
・[ベット]
 別当(長井斉藤実盛別当・武将)が詰まったもの、虫送りでは、子供の背丈ほどあるワラ人形を指す。
・[ユゲ衆]
 遊行上人から来ている。墨染め衣に面をつけ、村の端から端まで踊り歩いて虫送りをつとめる。

成り立ち

外場はそもそも江戸の初期ぐらいの頃に、木地師が住み着いて拓いた村で、寺院所領の解体が行われるまで、付近一帯にある村落はこの外場が唯一だった。

近年になって溝辺町に併合され、一括して「外場」という地名の中に押し込められたけれども、村人も近隣の者も村と呼ぶし、郵便上の記述としては今も、「村」の文字と共に七集落の名前が残っている。

組織

外場は行政上、外場校区といい、六地区でできている。各集落が各地区。これがさらにに細分されていて、これは純粋に家の在所による区分け。
各地区から一名、区長が選ばれて町長の承認を受け、六区長が区長会を作り、そこで会長が選出されるが、この区長会長が実質上の村長と言って差し支えない。

弔組は基本的に班を母胎にしているが、分家は本家のある場所の弔組に属する。

弔組は寺の領分だが、祝組は神社の領分。弔組の方は世話方といって寺の檀家組織との関係が深く、祝組では村方という氏子組織との関係が深い。

旧・外場村。樅に目をつけた木地師の集団が切り拓いた村で、血縁的にも地縁的にも、村は周囲と脈絡を持たない。

閉鎖的で噂話が盛ん、などのいわゆる「田舎気質」を持ち、良きにつけ悪しきにつけ、古いものがよく残っている。

 

 

―泣く子の所には、鬼が出るぞ。

 

言い伝え

心残りや恨みを残した死人は墓から甦って徘徊し、村に災いをもたらす。村ではそれを「鬼」と呼んだ。
鬼の触れたものは死に感染する。人や家畜は死に、作物は枯れる。

 

 

外場の施設

田舎の寺だが村の住人の大多数を檀家に持ち、大きい。しかし、寺の人手の要になる寺族は少なく、檀家数は多くとも田舎のこと、お布施の相場はたかが知れているから、人を雇って集めるにも限界があった。
寺には役僧が二人いるし、立て込む時には近隣の寺からも役僧が来る。だが、人手は慢性的に足りておらず、平素には無言の心配りで寺は支えられている。
村には信仰が生きており、何かと言っては檀家の人々が集まり、手を貸している。

尾崎医院

尾崎医院はかつて、付近一帯に唯一の医者だった。

尾崎医院は看板によれば内科が専門だが、求められれば何でも診る。一応医院なので入院施設はあるものの、ベッド数は個室も含めて十九床。それも院長の敏夫が戻ってきて以来、空いたままになっている。設備はあっても、入院患者を受け止められるほどの人手がない。

基本的に入院患者は受け付けていない。検査や経過観察のために一晩、二晩、特別に入院の措置を取ることはあっても、ある程度以上の入院が必要な患者は、すべて溝辺町の病院に廻すことになっていた。

昨年、病院の一部が増築改装され、CTが入った。その際院長室、応接室、庭が取りつぶされた。
院長室がつぶれたかわりに、診療室の隣に小部屋が設けられ、敏夫の控え室になっている。かつての院長室とは違い、特にこれといった装飾もない機能一本槍の部屋。

兼正

寺のある北山と西山の合するあたり(門前)に「兼正」と屋号で呼び慣わされる屋敷。

兼正と通称される竹村家は、かつては代々町長を務め、その地所にある旧家然とした屋敷から住人を見下ろしていた。
外場が近隣の溝辺町に併合されたのを機に溝辺町市街部へ移り住み、町政へと乗り出していったが、兼正は未だに外場の利益の代弁者であり、村の重鎮であり続けている。
寺の檀家総代で、静信とも付き合いが深いが、昨年先代が急死する前、全くの独断で、屋敷をひそかに売却したらしい。

屋敷は取り壊され、後には奇妙な洋館がたった。住人がどんな人物なのか、知る者は誰もいない。

楠スタンド

村に一軒だけのスタンド。プロパンも扱っているため、村の全ての世帯がスタンドの顧客だといってもいい。
楠親子(楠正也とその妻、長男夫婦と次男章二)が家族だけで経営している。

ちぐさ

加奈美が開いたドライブインだが、始めて二年で自動車道が開通した。店を開いた当初は長距離トラックを当て込んで早朝に開け、モーニングを出したりもしていたが、これは二年も前にやめた。以来、村の住人を相手に、細々と営業を続けている。夜に飲みに来る男達のおかげで、かろうじて商売が成り立っている。

タケムラ
文具店

子供を相手の商売。子供達の登下校時でなければ、近所の者が時たま切手や葉書を買いに来る程度で、閑古鳥が鳴いている。そのため、店先の床几は、暇な老人達の恰好の溜まり場に。
国道から村道へと入ってすぐ、小学校に入る道の角にあり、村に出入りする車の流れを把握するのには絶好の場所。国道のバス停に向かう者も、その多くがタケムラの前を通る。

creole
クレオール

喫茶店だが、看板も上げないし、店の名前も横文字にしてわざと読めないようにしているため、敷居が高い。ランチも出るが、基本はコーヒーと酒。
店名はジャズに由来する。

田代書店

村にある唯一の書店。駐在所の斜め向かいにある。

公民館

公民館の中には図書館、小さなホールや寄り合いのための会議場、各組合の事務所などが寄り集まっている。

田舎の図書館の蔵書などというものは貧弱なものと相場が決まっているが、外場のそれは破格。寺や尾崎、兼正が代々申し合わせてかなりの量の書物を寄贈しており、使いでがある。もっとも、軽い読み物などは少なかったので、村人にはあまり評判がよくなかった。

外場出張所

外場における保健業務を行う役場。小さい組織で、総勢六人。各集落に係がいて、これを役場の保健係が取りまとめる。

学校

小学校、中学校はいつ閉鎖されてもおかしくないような代物が村にあるが、高校になるとバスに乗って近隣の学校に通わなくてはならない。高校までは、バスを使っても30分かかる。

小学校には六クラスしかなく、それも学年によっては生徒数は十数名ということもあった。中学も一学年一クラス。

寺から15分ほど歩いた所に、殉教者を祀る祠がある。戦中、兼正の変わり者が建てた。

総計四百戸足らず。人口にして千三百人あまりの小さな村だが、かつて村制が布かれていた頃の財産で、とりあえず村としての面目が保てるだけの設備があった。

公民館や保育園の維持費の多くは室井と尾崎、兼正が負担している。この三家はそのようにして、ずっと村を支え続けてきた。

寺、兼正、尾崎を三役といい、村の中心。村は、この三役を中心にして、非常に強く結束している。

 

 

溝辺町

施設

設備の整った総合病院や国立病院がある。高速に乗れば、都市の大学病院まで三時間もかからない。

保健センターも置かれている。

地理

川らしい川が、尾見川しかない。下流では水が不足しており、外場でも取水を絞り込んでいる。

溝辺町北部に広がる山間部は、町面積のほぼ三分の二を占める。人口の殆どは残る三分の一である溝辺町に集中しているが、山の中にもいくつかの集落が点在していた。

インターチェンジが溝辺町のはずれにでき、以来、溝辺町は急速に開発されている。

 

 

 

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