名君・延王尚隆

 

 

 延王尚隆は名君として名高い。500年王朝が続いていることからそれは明らかだが、登極した当時から、その才覚には目を見張るものがあった。

 尚隆が登極した時、雁の国は折山の荒廃にさらされており、朝廷も佞臣がはびこっていた。そんな中に、彼はたった一人(正確には延麒も一緒だが)で乗り込み、多数の官僚の中から信頼のおける者を的確に選び出し、要所に配置した。そして、重要なことは全て自分一人で考え、皆を引っぱっていったのだ。

 泰王に即位した驍宗も、疾風の勢いで朝廷を整えたが、その時は当時の雁ほど朝廷は荒れてはいなかったし、なんといっても驍宗は最初から朝廷にいて、中央の政治に携わっていた。朝廷の内部について、誰よりも詳しかったのだ。

 一方尚隆は、胎果である。この世界のことは何も知らないに等しい。一応小松の跡取りとして育ったことから、国を治めるということについて、それなりの考えや知識も持っていただろうが、それでも政治形態・朝廷の内部事情など知らないことは多々あったはず。

 実際、胎果の景王陽子は即位後もわからないことばかりで戸惑いの日々を過ごすことになった。文章を読むことさえできなかったのだ。

 なのに尚隆は、どんなことに対しても、「わからずに困っている」という様を見せることはなかった。統治の仕組み・政治形態を理解するのに苦労している様子もなかった。むしろ、朝廷の誰よりもそういったことに精通しており、官位にとらわれることなく有能で信頼のおける人材を最も適切な部署に配置していた。文章の読み書きも、当然のごとくたやすくこなした。

 一体なぜ、このようなことが可能だったのだろうか。

 現代日本の生まれである陽子に比べれば、尚隆の育った500年前の蓬莱は、十二国の世界にずっと近い。だから、陽子ほどは生活習慣等で戸惑うことはなかったのかもしれないが…それにしても、差がありすぎる。

 文章の読み書きについては、「漢文だとかろうじて通じる」ようなので、尚隆に元々漢文の素養があったのだと考えれば、さほど習得に苦労することはなかったのかもしれない。しかし、こちらの政治については……。

 なんといっても尚隆は、即位式の時から既に国のこと・政治のことについては詳しい様子だった。尚隆は胎果だから、誰かに教わらなくてはこういったことを知りうるはずがない。一体いつ・誰に教わったのだろうか。

 陽子の場合は三公をはじめとする官に教わっていたが、それでもすぐに追いつけるはずもなく。あまりにものを知らなさすぎると官になめられきってしまう結果となった。

 だが、尚隆の場合は、「政務をさぼって遊んでばかり」と官を困らせ、また呆れられて物笑いの種にされたりすることもあったようだが、「もの知らず」とは思われていないようだった。そもそも、尚隆が胎果であることすら十分に伝わっていなかったようなのだ。即位の際、「貴様がもたもたと昇山せずにいたせいで…」との批判があったのがその証拠。もし即位前に官からいろいろ学んだというのなら、新国王は一般人よりもものを知らないとの話が広まり、同時に尚隆が胎果であるということも広く知られるようになったことだろう。だが、そうはならなかった。

 だとすると、尚隆は朝廷以外の所で様々な知識を学んだということになる。それはどこか。―蓬山の可能性が高い。

 延麒が蓬山を出奔した後、蓬山はどういう対応をとったのか、はっきりとはわからないが…先の「もたもたと昇山せずにいたせいで〜」という批判から察するに、どうやら蓬山はこのことを隠していたようである。そして、延麒は尚隆を連れて戻ってきた。他の誰にも知られることなく。

 選ばれた王は、蓬山で吉日を待ち、その日が来たら天勅を受けて生国に下るーつまり、吉日が来るまでは暇なわけである。尚隆は、その期間に様々なことをスパルタ式に詰め込んだのではないだろうか。

 まずここで読み書き・十二国の世界・そして政治の仕組みなどについて女仙から学ぶ。地理など国内のことについても、雁出身の仙に聞くとともに、実際に国を見てまわって把握する。

 いくらなんでもこれでは日が足りなすぎるような気もするが、尚隆のことだから、無理矢理天勅を受ける日を延ばしたのかもしれない。小松の跡取りだった尚隆は、彼なりに朝廷が荒れているであろうことを予測して、それなりの準備を整えてからでなければ、官になめられて国を統治するなど到底出来ないとわかっていたのかもしれない。

 そして王宮へ入った尚隆は、まずもっとも重要なことに取りかかり、その裏では着々と朝廷一新の準備をすすめていった…。

 即位前から、荒れ果てた雁国を統治するにはどうすればいいのかを正確に見極めていた……実に見事。

#もっとも、尚隆のことだから、「俺は胎果だ。そんなもの知るわけないだろう。俺にわかるようにちゃんと説明しろ。そんなこともできないのか」と逆に威張って即位式まで三公からあれこれこっそり教わっていたという可能性ももちろん否定はできないが……。

 尚隆は、王として本当に傑出した人物であったのだ。逆に言えば、尚隆でなければあの状態の雁を立て直すことはできなかっただろうとも思う。

 もし彼が胎果でなかったら、瓢風の王となっていただろうか。ああいう性格だから何ともいえないが、彼にはそれだけの行動力が備わっている。また、それだけではなく、瓢風の王の命運が早く尽きてしまう原因として挙げられる性急さ・思い込みの激しさ(視野の狭さ?)がなく、鷹揚で広い視野を持っている。

 考えれば考えるほど……延王尚隆は、稀代の名君なのだ。

 

 

2004.7.5

 

 

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