ホムンクルスの存在意義
アニメ版「鋼の錬金術師」における、ホムンクルスとは一体どのような存在だったのだろうか。
錬金術師が人体錬成を試みた結果生まれた「失敗作」で、肉体と精神のみからなり、魂を持たない。しかし、ホムンクルスは、特殊能力を持つこと、錬金術が使えないことを除いては、普通の人間となんら変わらないように見える。ホムンクルスと人間を隔てる「魂」とは何なのか。
「鋼の錬金術師コンプリートーストーリーサイド」によれば、魂とは、「身体に宿って生命の原動力となり、同じくその生命の精神作用を司ると考えられるもの」とある。しかし、正確には解明されておらず、それ故に、人体錬成は成功しないとも記されている。
しかし、「生命の原動力」ということは、魂のないホムンクルスは、生きることはできないはずではないのか。アニメ版で、ホムンクルスが生きて、活動しているのは、紅い石があればこそではないだろうか。もし、ダンテから紅い石を与えられることがなければ、原作のように、生まれて間もなく死んでいたのではないか。
そして、人間になるべくして生まれてきたホムンクルス達は、人間になることがその存在理由であり、本能のようにそれを望む。
人間は、ホムンクルスを生み出したにも拘わらず、それを拒絶する。エド然り、スカーの兄然りだ。特にエドは、ホムンクルスを錬金術師の「過ち」とし、それを正そうとーつまり、倒そうとした。なぜ、ホムンクルスは倒されなければいけないのだろうか。
作中ホムンクルスが暗躍していたのは、ダンテに従えば人間になれると信じていたからだ(エンヴィー除く)。ならば、ダンテさえ倒せば、ホムンクルスを倒す必要はなかったのではないか?
一方的に攻撃を仕掛けてくる相手に対して戦うのはやむを得まい。しかし、なぜエドや師匠は、スロウスやラースを葬ろうとする必要があったのか。そのまま、共に暮らすわけにはいかなかったのか。
スロウスは、エド達の母親としての記憶を一部持っており、愛情さえ抱きそうになっていた。そして、そのことを恐れた。母親ではないのに、母親だと錯覚しそうになる、と。だから、エド達を攻撃せずにはいられなかった。自分は二人の母親などではないことを、証明するために。
しかし、なぜ、そうしなければならなかったのか。母親と錯覚したままではいけなかったのか。スロウスを、「水に変身する能力と、不死に近い生命力(?)を得たトリシャ」と捉えることに、どんな問題があったのか。
まず、他ならぬスロウス本人が自分をトリシャとは認めなかった、という問題がある。ホムンクルスは、人間になるべくして生まれたため、本能のように、人間になることを望むーそれは、いい。だが、それならば、同じ理屈で、トリシャになるべくして生まれたスロウスは、トリシャになることを望むはずではないのか?なのに実際は、必死でトリシャであることを否定しようとしている。
ホムンクルスは、人間になることを望む。それは、現在人間ではない、という認識に基づく。スロウスは、自分がトリシャではないと、まず、認識している。これは恐らく、製作者(エルリック兄弟)がスロウスのことをトリシャだと認識しなかったからだろう。だから、スロウスは自分をトリシャだと認識できなかった。
そうなると、スロウスは、自分の拠って立つところを失う。製作者が認めないかぎり、スロウスはトリシャにはなれない。そして、製作者は、スロウスの存在を拒絶した。人間ではない自分、トリシャではない自分を否定され、「現在のホムンクルスである自分」を受け入れるものは、何もない。
ホムンクルスは人間になることを望むが、最終的に、人間になれたとしても、トリシャ(=製作者に望まれた人間)になれなければ、アイデンティティを確立できないのかもしれない。そして、スロウスをトリシャだと認識できるのも「製作者」だけ。「製作者」がいなければ、スロウスをトリシャだと認識できる存在も否定できる存在もいなくなりースロウスは人間になりさえすれば、アイデンティティを確立できることになる。「スロウス」という個人として。
つまり、エルリック兄弟は、スロウスにとって、自分の「存在」を脅かす唯一の相手なのだ。ホムンクルスが製作者を敵視せずにいられないのは、このような理由があってのことではないだろうか。
では、エルリック兄弟は、なぜスロウスをトリシャと認めなかったのか。
誕生したばかりのスロウスは、人の形をしていなかったから、そう思えなくても無理はないーが、後に会ったスロウスは、「水に変身する能力を得たトリシャ」と言っても差し支えないものになっていた。記憶もわずかながら、あった。
エルリック兄弟に対して攻撃をしかけてきたからだろうか。しかし、もしスロウスがトリシャのように振る舞っていたとしても、エドはスロウスをトリシャと認めなかっただろうー意固地なまでに。
エドには、「トリシャ」という個人に対して、確固たるイメージがあった。スロウスは、そのイメージの大部分を表してはいるものの、全くその通り、というわけではない。記憶も全て持っているわけではないから、トリシャのように振る舞おうとしても、完全にその通りというわけにはいかない。それ故に、エドはスロウスに対し違和感を覚え、否定する。―もし、スロウスをトリシャだと認めてしまったら、その若干歪んだトリシャ像(=スロウス)と、生前の本物のトリシャ像が混同され、自分の中の「トリシャ像」が損なわれてしまうという危機感を覚えて。
ラースを積極的に倒そうとしなかったイズミとの違いは、これに基づくのではないかと思う。ラースの元になった人間は、人格を持つ前に死んだ。イズミの中には、いかなる「ラース像」も築かれておらず、それ故に、ラースを目の前にしても、「本物」との違いに危機感を覚えることはなかった。「本物」のイメージを持たないが故に。
本来なら、生まれて間もなく死ぬはずだったホムンクルス。だが、不幸にして彼らは永遠に近い命を手に入れてしまった。製作者にはその存在を望まれていないのに。そして、今後も望まれることはないだろうに……。だからラストは、死を望んだのだろうか。
存在意義を持たない存在、ただひたすらに哀しい存在―それが、アニメ版ホムンクルスだったのではないかと思う。
2005.6.6