ミステリ作品あれこれ

 

 世の中に数多溢れる作品には、便宜上ジャンル分けがなされているが、中でも人気のあるジャンルがミステリーで、よくベストセラーの上位を占めている。

 このジャンルがなぜここまで人気を博しているのかは、よくわからない。少なくとも私の場合、他のジャンルの作品と比べると、ミステリ作品は「読み捨て」となるような傾向が強いのだ。通常、面白かった作品は何度も何度も読み返したくなるものだが、ミステリ作品に限っては、この衝動が弱い。面白いと思った作品でも、一回読んだら大体それで満足してしまって、不思議とそれ以上読み込もうという気があまり起こらない。他のジャンル(ファンタジーなど)の本だと、読み終わってからも想像を巡らせたり、ここぞという場面を思い返したりして楽しめるが、ミステリの場合、読んでいる時は楽しいものの、読み終わってしまうとどうも物足りない。

 つまり、簡単に言ってしまうと、ミステリ作品は一回限りの技、こちらを吃驚させてくれるか否か、ということになる。もちろん、そんな凄い作品にはそうそうお目にかかれるものではないし、ある程度読み慣れてしまうと、「このパターンか」と分類しているにすぎないことになる。だが、そうなっても、ミステリが楽しめなくなるわけではない。途中はサスペンスの要素など入れて目を離せないようにしてくれればよい。さらに、感情移入しやすいキャラクターと小粋なセリフや言い回しが数出てくれば、これは一回きりでは終わらない作品となるだろう。
(ちなみに、私は探偵よりも怪盗の方が好きである。上記の要素を含む上気の利いたセリフを喋ってくれるし、なんといっても、こちらを実際にびっくりさせてくれるのは、探偵ではなく怪盗の方なのだから。)

 そんなわけだから、私はあまり大がかりなトリックは好きではない。よく糸だのなんだのを使った面倒臭いトリックが出てきたりするが、そのトリックを仕掛けているところを誰かに見られたらどうする気だったんだろう…などの疑問が次々とわいてきてどうにも楽しめないし、大体一回限りの技である(と認識している)ミステリで、そんな七面倒くさいことをごちゃごちゃとやるのが嫌なのだ。ミステリは、何よりもまず読みやすくあってほしい。とにかく先へ先へと進んでいけるようにしてほしいのだ。途中で手を止めたり何度も読み返したりしなければならないような事態はなるべく避けて欲しい。まあ、物語前半はそういうことがあってもいいが、いよいよクライマックスという段でそういうことはやめてほしい。そこは、読者を驚かせるという最も重要な部分。ただただ驚きで頭をいっぱいにできるようにしてほしいのだ。そんな時にあれこれと読み返していたのでは興が冷めてしまう。スピードがあればあるほど、それを受けたときの衝撃は増す。ただ一言で読者に強い驚きと納得を―驚きだけでなく納得をもー与え、続く説明で、それを深くしていく。それが望ましい。

 だから、私は心理の盲点をついたようなトリックが好きである。そして、それを主眼に置いている叙述トリックがとりわけお気に入り。うまくはめてくれた時は、最高である。

 

 ところで、ミステリ作品というのは、小説だけではない。マンガなどでも隆盛を誇っているが、ミステリ作品をマンガで描くには色々と苦労が多いらしい。

「だったら丁寧に説明すればいいじゃなか、と思われるかもしれませんが、そうするとセリフが長くなりますし、規定のページ数をオーバーすることにもなります」
     (「
LIFE IS SPIRALP53

「「つまらないからボツ」というのはわかるのですが、「動きのあるものをしたいから」というのはかなり無茶な注文です。そもそも「推理」という行為には動きがありません。思考レベルで激しく動いてはいるのですが、肉体的には動いていません。(略)
 「推理」を始めた瞬間、動きは止まるのです。「推理」を語り出した瞬間にも動きは止まるのです。これは絶対です。「動いているようにみせる」ことはできても、実際に動くことはないのです。いみじくも「本格推理」マンガを企画した段階から「動き」なんて要素は入れられるわけがないのです。」
     (「
LIFE IS SPIRALP59

…などの苦労が語られている。

 では、マンガ家は、これらの課題をどうやっってクリアしているのか。私の知っている「名探偵コナン」と「デスノート」を例に考えてみたい。

 「名探偵コナン」ではとにかく走り回ってるイメージがある。これは主人公の熱い性格と、子供であるがゆえに走らなければ周囲の人間に追いつけないというのが大きいだろう。走りながら考えをまとめたりしていることも結構多い。証拠探しに聞き込みに。そこら中を走り回り、机の下に潜り込んだりなど率先して動き回ることで、画面に多少なりと「動き」が出ているように見える。「スパイラル」の主人公をはじめとする探偵の多くは、普通、ここまで積極的に動き回る事はしない。大抵他の人間が情報を持ってきてくれるのを待っている。机の下に潜り込むような不自然な行動は取らないし、聞き込みも、余裕を持って(歩いて)行う。見た目が子供のコナンなら、忙しなく動き回ってもなんら不自然ではないが、大人はかように走り回ったりはしないものなのである。

 そんなわけで、「名探偵コナン」は、通常大人である探偵を子供の姿にすることで、画面に動きを持たせているのだと言える。

 一方の「デスノート」では、登場人物はみな大人(正確には未成年だが、それもあと数年で成人する)。コナンのように走り回ったりはしない。ごくたまにテニスをしたり車でビルに突っ込んだりカーチェイスをしたりなどするシーンが出てくるが、それはあくまで例外。メインは会話か独り言である。だが、にも関わらず、「動きが足りない」という感じはしない。ストーリーの進行速度が尋常ではないためそれどころではない、というのもあるが、無論理由はそれだけではない。
 まず、話している人物の角度を次々と変えることで、動きがあるように見せている。また、その人物自身も全く動いてないわけではなく、腕を組んだり顎に手を当てたりなど細かい動きをしているのだ。さらに、メインの登場人物が「絵になる」人物であることも大きい。死神はとにかくその風体からいるだけで嫌でも目を惹くし、主人公の夜神月は美形で妙に芝居がかった仕草をするのでこれまた自然と目がいく。ついついその一挙手一投足に注目してしまうのだ。流石「新世界の神」を自称するだけあって、人を惹きつけずにはおれないものを持っている。そのライバルの
Lも、また違った意味で人目を惹く。様々な面でとにかく非常識なのだ。無論その行動も変わっており、高級ホテルのテーブルにマジックでものを書いたり、コーヒーカップの縁の上で角砂糖の積み木をしたり……等々、とにかく常識外れなことをしている。こうした行動を目にした読者は、次は一体どんな常識外れの行動を見せてくれるのかとこちらからLの行動をつぶさに観察するようになる。

 このように、「デスノート」では、動き自体は少ないものの、些細な動きの一つ一つにまで重みを持たせることによって、この問題を気にさせないようにしているのだと言える。

 ちなみに、「デスノート」はとにかく文字量が多く、読むのに他の漫画の倍は時間がかかるが、それでも苦痛にならないのは、その殆どが「重要な情報」で物語がめまぐるしい速度で進むため、冗長さを感じさせないのと、その内容が複雑すぎないためではないかと思われる。

 

 

 

2005.3.28

 

 

 

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