味覚の不思議

 

 私がまだ小学生にもならない子供だった頃、ある時ふと不思議に思ったことがあった。それは簡略化すれば、次のような疑問である。

「私は卵焼きは好きだがピーマンは嫌いだ。

 しかし、中にはピーマンが好きで卵焼きは嫌いだという人がいる。

 その人は、ピーマンを食べたときに、私が「卵焼きの味だと思ってる味」がして、卵焼きを食べたときに、ピーマンの味を感じるのだろうか?(仮説A

 それとも、その人は、本当に、あの「ピーマンの味」が好きなのだろうか?つまり、「卵焼きの味=おいしい」ということではなく、単に私は「おいしい=卵焼きの味」ということになっており、その人は「おいしい=ピーマンの味」だということなのだろうか?(仮説B)どういう仕掛けになってるのか全く理解不能だが。あのピーマンをおいしいと感じるなどというのは……」

 と、まあ、このような感じではあるが、この疑問は、約一日足らずで取り敢えずの回答にたどりついた。それはつまり、

「食べ物の好き嫌い、という時に、『好き嫌い』という言葉を使っているところからすると、後者(仮説B)だ」

と。要するに、「好き嫌い」という主観的表現を使っているのだから、違うのは「味」ではなく「人」ではないかと思ったわけである。

(むろん、この時、「しゅかんてきひょうげん」などの語を知っていたわけではないが、このようなことを考えたのは覚えている)。

 で、今、丁度食欲の秋でもあることだし、あらためてこの問題について考えてみようと思う。

 結局のところ、食べ物の好き嫌いというのは、舌が受けた刺激で伝わった信号が、快と受け取られるか不快と受け取られるかーということになると思う。問題はその過程。

 まず、食べ物それ自体については考慮しなくていいだろう。リンゴはリンゴ、ミカンはミカン。個々のリンゴでも違いはあるだろうが、リンゴとミカンを間違えるようなことは、まずない。

 ただ、気になるのはその後である。

 リンゴはリンゴー「リンゴが舌に与える刺激」がみな同じものであったとしても、「舌が脳に伝える信号」「脳が刺激を受ける場所」は同じだろうか。

 例えば、「味覚異常」と言われる場合、「辛いもの」を食べても何も感じなかったり、「辛い」と「すっぱい」の区別がつかなかったりするらしい。これは極端な例だが、例えばA氏が甘口カレーを食べた時は、脳のX部分に刺激を受け、B氏の場合はY部分に刺激を受ける。そういうことはあるのではないか。

 いますこし具体的な例を挙げると、A氏はその前にケーキを食べていたから甘口カレーを辛いと感じ、B氏は辛口カレーを食べた後に食べたから甘いと感じる……というようなことは。A氏とB氏が同一人物である場合においてさえ、あり得ることだ。

 であるからして、同じ食品であっても、人によって「舌が脳に伝える信号」「脳が刺激を受ける場所」が違うということは大いに考えられる。ワサビに過剰な反応を示す人(私がいい例だ)とそうでない人がいることを考えても、そうである可能性は高い。

 これで仮説Aが完全に誤りではなかった…ということが言えると思うが、まだ正しいとも言えないし、これだけでは仮説Bを否定することもできない。

 仮説Aだとするためには、次の太字部分を証明する必要がある。

人は脳の味覚を司るX部分に刺激を受けると快、Y部分に刺激を受けると不快と感じる。

 また、X部分のうち、z部分に関しては、過剰な刺激を受けると不快と感じることがある。

 従って、X部分に刺激を受けたA氏はケーキをおいしいと感じ、

     Y部分に刺激を受けたB氏はまずいと感じた」

 例えばA氏は甘いものが好きでB氏は嫌い、という場合。

 仮説Aならば、

  A氏は「甘味」に鈍感でB氏は敏感であるため、「甘すぎる」と過剰に反応してしまい快く感じられないか、

 もしくはA氏は甘味(X)部分に刺激を感じるが、B氏は苦味(Y部分)に刺激を感じて快く感じられないか……

 のどちらかということになる。

 一方、仮説Bならば、

 どちらも「甘味」部分に同じだけの刺激を受けるのだが、

  A氏は「甘味」に刺激を受けると「快」と感じ、

  B氏は「甘味」に刺激を受けると「不快」と感じるようになっている、

  ということになる。

 これだと、「甘いモノは嫌いだが、○○のケーキなら好き」という人物の存在を説明できないようにも感じるが、これが「甘味=不快」というように大雑把に区分されているのではなく、「甘味a=不快」「甘味b=不快」「甘味c=快」というように細かく区分されているとすればーつまり、「甘いものの好き嫌い」が「甘味」を司る部分の大半が「不快」につながっているか、「快」につながっているか、ということによるとするならば、説明できる。

 ここまで考察をすすめると、さらに、これらを統合した仮説Cが登場する。これは、仮説Bの「誰もが同じ部分に同じだけの刺激を受ける」という部分のみを退けたものと、ほぼ等しい。

それは、先程示した

人は脳の味覚を司るX部分に刺激を受けると快、Y部分に刺激を受けると不快と感じる。

 また、X部分のうち、z部分に関しては、過剰な刺激を受けると不快と感じることがある。」

という仮説Aのアルファベットの部分が、全人類共通ではなく、人により異なる、ということである。

 仮説Aでは、この「X,Y,z」が示すものは、誰もが共通、としていた。

 つまり、仮説Cは、

「脳の味覚を司るX部分に刺激を受けると快、Y部分に刺激を受けると不快と感じる。

 また、X部分であっても、そのうちz部分に関しては、過剰な刺激を受けると不快と感じることがある。

 なお、ある食物を食べた時、脳のどの部分にどれだけの刺激を受けるかは、人により多少異なる。

(注:X,Y,zにあてはまる部分は、各人により異なる)」

 ということになる。これが一番可能性が高いように思われる。

 これを見ると、食べ物の好みはまさに十人十色だと感じる。

 しかし、「おいしいと大評判の店」が存在し、「普通、プリンに納豆を入れて食べようとは思わない」などということから見ると、「大多数に受け入れられる味」―つまり「X部分に刺激を伝えやすい食物」というのは存在するのだろう。このX部分が脳の大体どの部分に相当するかなどの大まかな構造は、意外と似通っているのかもしれない。

 しかし、むろん細かいところでは色々と異なっているであろうから、一定の割合で、その「大多数に受け入れられる味」が嫌いという人も当然ながら存在するだろう。私も牛乳が嫌いで、昔給食では苦労したものだ。コーヒー牛乳ならなんとか飲めるのに……。飲めないのは大体クラスに数人。他もそんなものらしい。

 その割合が極端に低い場合、「悪食」などと呼ばれるのかもしれない。

 以上、科学的根拠は全くなく、まわりに見られる数々の事例から考察を進めたものである。このあたり、昔とあまり変わっていないような気がするが……とりあえず、以前よりは確信の持てる仮説を示すことができた。迷いの森ということで、このへんでご容赦願いたい。

 

 

2003.10.26

 

 

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