方向音痴

 

 ……自分は方向音痴なのだろうか?実は、これがまだよくわからない。昔は道が覚えられないので自分は方向音痴かもしれないと思っていたが、自分で地図を見て目的地まで行った場合、帰りは大体地図が不要であることに気付き、これまではただ単に道を真剣に覚えようとしていなかっただけではないかという疑問が持ち上がってきたわけである。しかし、螺旋階段を下りて地下に入ると、方角がわからなくなるので、そのあたりを見れば方向音痴と言えるかもしれない。

 また、「どこからどう見ても方向音痴」という母を見ると、ますますわからなくなる。母は地図を見ても目的地にたどり着けず、さらに、店を出ると、どういうわけか、必ず反対方向に歩き出す。必ず反対方向に行くとわかっているなら、某ラウルさんのように、「オレのカンでは右だ。左は行くぞ」……という感じで自分の勘と反対方向に進めば良さそうなものだが、そうはならない。なんとなく歩き出してしまうため、考える暇がないようだ。そしてそれは、よく知っているはずの場所でも頻繁に起こる。……私はそこまでひどくない……と、思う。たぶん。だが、そんな母も、昔は遠方に通学し、複雑な地下街を迷いもせずに歩き回っていたという話。ひょっとすると、年齢と共に、方向感覚も衰えていくものなのだろうか?そのうち私も、ふと気付くと「…ここはどこだ?」と、しょっちゅう迷子になる日が来るかもしれない。

 それにしても、なぜ、必ず反対方向に歩き出すのだろうか。確率から考えれば、半々になるであろうところ、必ず反対方向に歩き出す、などとは……。一番あり得るのは、正解を選んだ時を考慮に入れてない、ということだ。正しいルートを選んだときは何も問題は発生せず、したがってあまり記憶にも残らない。間違った時のことばかり覚えているため、「必ず反対方向へ行く」というふうに思いこんでしまっている、ということになる。つまり、二回に一回道を間違えれば、「必ず道を間違える」と思われ、その人は方向音痴、とされる。

 ところで、実際のところ、どのレベルになれば「方向音痴」と呼ばれるのだろうか。3回に1回道を間違える人はどうだろう?また、同じ「道」でも、繁華街、住宅街、建物の中、迷路、樹海など、場所によって違ってくるだろう。過半数の人が「方向音痴」とされたら、それはもう「方向音痴」とは言えず、「普通」と呼ばれる。だがら、樹海や迷路でいくら迷っても方向音痴ということにはならない。すると、普通の街で、地図を見て目的地にたどり着けるか否かが判断基準になっているのだろうか。それとも、道を聞いて目的地にたどり着けるか否かだろうか。一度通った道をどれだけ覚えていられるか、だろうか。こうして考えてみると、結構曖昧なものである。

 方向音痴は空間認知能力の問題、という話を聞いたこともある。しかしこれも、判断基準が難しい。幾何が苦手な私だが、それでも一応、特定の場所に特定の物を収納できるかどうかは、(側に現物があれば)入れてみなくてもなんとなくわかる。聞いた話では、この場合、収納も苦手となるはずなのである。また、地図をきちんと描くことができるか、というのもあり、これに関しては、私のは距離感が滅茶苦茶になる。ちなみに、封筒・葉書の宛名書きも苦手だ。文字をどのぐらいの大きさで書けばいいのかつかみにくい。ただし、そのかわり……といってはなんだが、一行に、書こうとしている文が全部収まるかどうかが、五分の三ぐらい書いたところで大体わかる。そこで無理だと思っても、もう少し埋めれば、「可能な限り文字を小さくすれば可能」「文字を小さくしても無理」というのがなんとなくわかる(手書きの場合のみ)。そして、絶対無理だと思ったものは、本当に、その行には収まらない。これは、慣れの要素も大きいだろうが。

 こうした点からすると、私は典型的な「方向音痴」像にぴったり当てはまるというわけではないものの、かといって、「方向音痴ではない」とはっきりと言い切ることもできない、微妙な位置にいるようだ。別に自分が方向音痴かどうかわからなくても困ることはないからそれはそれでいいのだが。

 それにしても、こうして見ていくと、何気なく使っていた言葉も、実はかなり曖昧な意味しか持っていないように思える。もっとも、これは、全ての言葉に関して言えることかもしれないが。「何かを定義するのは不可能だ」という話もある。しかし、一番曖昧でわけがわからないのは、このコラムだろう。なんとなく書いていたら、完全に道に迷って収拾がつかなくなってしまった。

 山で道に迷った時は、その場を動かない方がいいと言う。それにならって、このコラムも、今回はここで終わりとすることにしよう。

 

 

2004.1.30

 

 

戻る

 

inserted by FC2 system