お墓のコト

 

 ネットのお墓の話を聞いたことがある。といっても、具体的にどんなものだか聞いたわけではない。ただ、「ネットでお墓参りというのがある」とだけ。さらに、「誰かが死んだらそれを利用するのでは?」とも言われた。……私は基本的に面倒くさがりなので、そのように見えるらしい。でも……多分、しないと思う。確かに普通の墓参りは面倒がって行かないかもしれないが、「ネットで墓参り」という、何のためにするのかわからない行為をする可能性は、それよりもさらに低い。

 最初に書いた通り、私は「ネットで墓参り」というのがどういうものだか知らない。だから、ここから先は、私の想像をもとに書くことになる。ひょとすると、後々想像とまるで違う事実を知ることになるかもしれない。だが、完全にハズレた前提をもとにしてあれこれ述べ立てたもの……というのも、昔書かれた「未来予想」「DQの新シリーズはこうなる!?」「この作品の今後の展開予想」などをずっと後になって読み返す時のような楽しみをもたらすかもしれない。……と、いうわけで、このコラムは、間違っているかもしれない前提をもとに、書き進めていく。

 それで、前提となる「ネットで墓参り」だが……この言葉を聞いたときに私の頭に浮かんだのは、次のようなことである。

 お墓や線香の映像、手を合わせる映像などが出てきて、なんとなく実際にお墓参りしたような気分になれる。ちなみに、私のイメージではごく簡単なアニメ絵。

 ネットでしかるべきところに申し込むと、そこの人が、代わりにお墓参りをしてくれる。

 これのどちらか、もしくはこれらの複合型だと思ったわけで、これをもとに、話を進めていく。

 まず、お墓参りは何のためにするのか。お墓は何のためにあるのか。……で、私が有力視しているのは、「残された者が、故人を偲ぶ場所を必要としたため」という説である。そして、この説を採用した場合、「ネットで墓参り」というのは、全く無意味なものになるのである。

 そもそも、私は、「お墓」というものに対する思い入れがほとんどない。確かに、今まで住んでいたところは、大抵近くにお墓がある所で、一度はそこで人魂を見たりしたこともある。だが、「お墓参り」ということになると、実は、あまり行ったことがない。どういうわけか、親類のお墓は、どれも遠いところにあり、とても日帰りで行けるような距離ではない。まあ、交通機関の発達した現在、その気になれば不可能ではないのだろうが、そうまでして「墓参り」に行かなければならない理由も見出せない。

 「故人を偲ぶ」ということなら、写真や形見の品、それによく故人と会っていた場所……などのほうが、よほど感情移入しやすいように思えるのだが……。冷たい石の塊など見ても、そこに死者の面影は見出せない。もう少し厳粛なものが必要なら、「仏壇」というものもあることだし、わざわざ遠方まで石に水をかけるために行かなくても……という気分だ。

 かように、お墓に思い入れというものがない私なので、ネットで「疑似体験」することにあまり意義を見出せないし(それなら写真などを見た方がいいと思う)、「依頼」して誰かにお墓参りをしてもらっても、だからどうした、という気が。だから、「ネットで墓参り」するというのは、実際に墓参りに行くよりも可能性は低いだろうと私は思うわけである。

 もっとも、「お墓」の存在意義は、「生者が死者を偲ぶ」というものだけではないだろう。「死者の霊を鎮める」とか「自分の死後も、自分の存在が忘れ去られることなく大切にされたい、また、そうされるであろうことを確信したい、という、現在生きている人間の造り上げたシステム」などといった考えも見受けられる。「ネットで墓参り」というのが成立しているとすれば、理由はどうやらこのあたりにありそうだ。

 まず、前者の「死者の魂を鎮める」ということについて。「もしお墓がなかったら、死者の魂は安らかに眠れないから、お墓は是が非でも必要だ」などと考えている人は、現代日本にはあまりいないような気がするが、それでも、「ひょっとしたら」お墓がないと死者の魂は苦しむかもしれない、お墓の世話を怠ると祟られたり化けてでられたりするかもしれない、と心のどこかで思っている人は結構いるのではないだろうか。なにしろ、死後のことは誰にもわからないから、その可能性は完全には排除できない。それほど労力を要さないのであれば、そうした「万が一の可能性」に備えて、「お墓参りをしておこう」という気になるのではないか。だとすれば、「ネットで墓参り」はうってつけである。殆ど労力を必要とせず、「これで墓参りをした」ということで、死者に対する義務を果たしたような気分になり、安心感を得ることができるのだから。(もっとも、死者の霊が実際に存在するとして、「ネットで墓参り」で満足してくれるかどうかはわからないが…もともと気休めのためにするようなものだから、それはそれで、かまわないのだろう。)

 次に、後者について。

 もし、死者の遺体が粗末に扱われていたら、人は、自分が死後どう扱われるかを想像して、あまりいい気分にはなれないだろう。死者が丁重に葬られ、死後も忘れ去られることなく大切にされているーということを見ていれば、自分の死後もそうであろうと考え、心安らかに逝くことができる。……ということで、つくられたのが、「お墓参り」というものではないかと考えるわけである。この習慣のために、自分が死後もすぐには忘れ去られることがないと信じることができ、また、自分を知る人が誰もいなくなったとしても、子孫が自分の存在に思いを馳せてくれるーと、そう思える。(しかし、これも、別に「墓参り」でなくとも、仏壇とかでもいいような気がするのだが……。)

 「ネットで墓参り」というのは、多分に形式的なものであるから、自分の死後、周囲の人間や子孫達に、「ネットで墓参り」してもらって嬉しいか、ということになると、かなり微妙である。完全に忘れ去られるよりはいいかもしれないが……。

 と、いうわけで、「ネットで墓参り」というのは、お墓の役割のうち、「死者の魂を鎮める」というものに対してのみ、有用なものであるだろう。他の二つの役割に対しては、あまり効果は期待できない。

 あれこれお墓の役割を考察してきたが、それでもやっぱり、今の私には、お墓は「冷たい石の塊」という感が拭いきれない。誰か、もっと親しい人がお墓に入ることになったら、また違う気分になるのだろうか。例えば、「故人のために何かしたい→なんとなく、労力が大きいほど故人のためになるような気がする→遠いけど墓参りに行こう」とか考えるようになるだろうか。……あまり、ないような気がするが。できれば、そんな日―親しい人がお墓に入るような日は来ないでほしいものだ。

 

 

2004.1.26

 

 

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