人間の女王と妖精のお姫様

 

 

 フィギュアスケートで最も脚光を浴びているのは、女子フィギュアである。
 個人的には男子フィギュアの方に魅力を感じるのだが、ここではあえて、この女子フィギュアについて語ってみたいと思う。

 女子フィギュアの魅力とは、なんだろうか。

 それは、誰もが大なり小なり持っている(であろう)「おひめさま」への憧れを満たしてくれることではないかと思う。「綺麗。お姫様みたい」――氷上の華麗な舞を見ていると、そんな言葉が自然と飛び出してくる。

 中でも特筆すべきは浅田真央選手(以下敬称略)である。

 数いる「おひめさま」の中でも浅田真央こそは最も「お姫様らしい」お姫様、それもただのお姫様ではない、「妖精のお姫さま」で、人々が女子フィギュアに求める理想そのものの存在だった。
 そんな浅田真央が人気を集めたのは至極当然の成り行きであったろう。おとぎの国のお姫さま、それが目の前に舞う奇跡に人々は酔いしれた。

 さて、ここで少々話は変わるが、物語の主人公になるのはいつも「お姫さま」である。普通、「女王さま」が主役になることはない。「お姫さま」が宮殿で踊り、動物と心を通わせ、様々な冒険をしたりする一方で、「女王さま」はたいてい玉座に静かに座っているだけである(たまに主人公に対し、無慈悲な命令を出したりする時もあるが)。一体なぜだろう。
 無論、おとぎ話の主対象である子供には「お姫さま」の方がより親しみやすいということや、女王だと国を離れられないため物語に様々な制約ができてしまう、といった理由もあるだろう。

 だがやはり、これだけ多くの物語の主人公が「お姫さま」であることを考えれば、人々は「女王さま」よりも「お姫さま」の方に憧れを抱くものなのだと思う。私もその一人だ。

 「女王さま」だけが持っているものもあれば、「お姫さま」にしか持てないものもある。「女王さま」になることで得るものもあれば、失うものもある。そして、「女王さま」の持つ威厳や冷たい美しさといったものよりも、「お姫さま」だけが持てる可憐さ、純粋さ、自由闊達で天真爛漫で…そういった輝きに憧れ、愛おしさを感じるのだ。

 だが、人はいつまでも「お姫さま」ではいられない。時と共にやがて薄れ、消えていってしまうものだ。「風紋」という小説に、こんなセリフがある。

「大人と子供、どっちが偉い?答えは子供。子供は大人になれるけど、大人は子供になれないからね」

 一瞬の輝き、いずれ儚く消えてしまうもの。だからこそ、より強くそれに惹かれるのかもしれない。

 女子フィギュアの選手も、通常シニアデビューして二、三年もすると、「お姫さま」らしさは薄れていく。そして、「オルゴール人形のように綺麗な」スケーターの中、一部のトップスケーターだけが、かわって「女王らしさ」を身につける。

 そう。女王になれば、「可憐な妖精」「あどけないお姫さま」の姿は消えてしまう。

 だが、浅田真央は違った。

 浅田真央が名実ともに世界女王の称号を手に入れた後も、それらは失われることはなかった。人々が求める「おとぎの国のお姫さま」であり続けた。凛として、気品溢れる妖精のお姫さま。

 浅田真央は、シニアデビューした直後から飛びぬけた存在だった。「お姫様らしいお姫さま」だからというだけではない、卓越した技術と表現力がそうさせた。通常、スケーターが「お姫さま」の頃には技術と表現力は未だ至高の域に及ばず、「お姫さまらしさ」を十分に発揮できない。そしてそれらを身につける頃には既に「女王さま」になっており、「女王らしさ」は表現できても「お姫様らしさ」は表現できなくなってしまう。そうした意味でも、浅田真央は「お姫さまらしさ」を十分に魅せてくれた稀有な存在だった。

 もちろん浅田真央も、年を重ねるごとに様々な表情を見せていった。可憐さや天真爛漫さだけではなく、それらを秘めたまま美しさ、苦悩、哀惜、など色々な感情を氷の上に見せるようになった。ことにバンクーバー五輪と続く世界選手権2010で見せた「怒り」は特筆ものだった。

 秋に浅田真央が「鐘」の曲を演じるのを初めて見たとき、私はそれを歓迎できなかった。まず曲が好みではないし、演技を見ても何だか曲に呑まれているようで、正直「大丈夫かな」と思ったものだ。そして何より、浅田真央の最大の魅力たる「妖精のお姫さまらしさ」が出せない―そう思っていた。
 ところがそんな心配をよそに、浅田真央の「鐘」はどんどん迫力と凄みを増していき、オリンピックではただただ「凄い」としか言いようのないものになっていた。バッハの「マタイ受難曲」を初めて聴いた時に近い衝撃と感動があった。
 最初、「激しく動いているのはわかるが曲に負けてもがき苦しんでいるようにしか見えな」かった「鐘」は、曲に匹敵する「怒り」と凄みを表現することによって、曲と見事に調和し、「凄まじい」ものを生み出した。

 それは確かに、浅田真央にしか演じられないものであったろう。技術はもとより、表現においても。

 トップスケーターともなれば、多くの場合、ジャンプ以外にも何かしら記憶に残る部分があるものだ。女子フィギュアであれば、スピンやスパイラルの美しさで印象に残ることが多い。

 そして浅田真央は、驚くべきことに、すべての部分で印象的だった。美しさと、そこに込められた感情とで。

 ジャンプが印象に残っているのは、言うまでもない。他に誰も跳べないトリプルアクセルを、それもフリーだけで二度も(加えてショートでも一度)跳び、ギネスブックに載った。
 スパイラルも美しく、同時に鬼気迫るものがあった。鬼気迫るスパイラル!こんなことをできる人が、どれだけいるだろうか。
 ステップも男子選手顔負けの迫力。普通、ステップは男子選手の十八番で女子選手のステップはおまけのように印象に残らないことが殆どだ。しかし浅田真央はリンク全体を生き生きと動き回り、躍動感に溢れていた。全身で「鐘」を表現していた。ここまで躍動感のあるステップを踏める選手は、男子でもそうはいない。(実際、ある男子選手が浅田真央と同じ曲(鐘ではない別の曲だが)で滑ったことがあったが、その時は非常に物足りなく感じた)

 そして、スピン。全てが印象深かった浅田真央の「鐘」だが、どこが一番心に残ったかと聞かれれば、私の場合、このスピンだった。美しく、凄まじい気迫の伝わってくるスピンに、ただ圧倒され、息をのんで見守った。美しく優雅なスピンを回る選手は多いが、美しく、しかも「凄絶な」とすら形容されるスピン――この芸術品は、今でも心に強く焼き付いて離れない。

 浅田真央以外の誰にもそれは滑れなかった。卓越した技術と美しさと表現力を兼ね備えた浅田真央だからからこそ、この至高の芸術品を生み出せたのだ。

 浅田真央というのは「妖精」らしく非常に透明感のある存在に感じられるのだが、透明なだけに表現すべきものを実に鮮やかに、くっきりと氷の上に映し出す。しかも他と違い、年を重ねても何色にも染まらず、ただその気配だけが凝縮し、鋭さと美しさを増していく。

 浅田真央が氷の上に立つと、空気が凛とはりつめて、澄んでいくのを感じる。「お姫さま」ならではの気品と透明感。「鐘」ではそこに「女王の峻厳さ」が加わっていた。
 「可憐に宮廷で舞い踊るお姫さま」だけではなく、「敵と戦う亡国のお姫さま」も見せるようになったのだ。普通は「女王の峻厳さ」を身につければ、「お姫さま」の軽やかさ、愛くるしさは失われる。だが、浅田真央は曲が変わればたちまち「可憐な妖精のお姫さま」に戻る。いつまでも、人々の憧れの存在であり続ける。永遠のお姫さま。「幼心の君(ネバーエンディングストーリー)」。そんな奇跡のような存在が、浅田真央なのだと思う。

 一方、浅田真央とは対照的な魅力で人を惹きつけているのが安藤美姫選手(以下敬称略)である。浅田真央が「妖精のお姫様」ならば、こちらは「人間の女王」といえるだろう。

 トリノ五輪の後、安藤美姫は情感あふれる演技に磨きをかけ、名実ともに世界女王に輝いた。安藤美姫は、もう「お姫さま」ではない。だが、誰よりも女王らしい。その仕草の一つ一つ、指の先まで美しく、惹き込まれる。演技終了後のお辞儀ひとつとってもそうだ。安藤美姫ほど優雅に観客に応えて見せる選手はいない。その姿は、まぎれもなく女王の風格を備えている。誰よりも優雅に、しなやかに、情感こめて演技をし、一礼する。
 年と共に「お姫さまらしさ」「妖精らしさ」を失った選手達は、かわって「女王らしさ」を身につける(悲しいことに、ここで女王らしさを身につけられずに消えてしまう選手もいるが…)。そして多くの場合、「氷の女王」になる。だが、安藤美姫はどこまでも「人間」だった。様々な色の交じり合った「人間」の感情、人間そのものを表現した。人間であり、女性であり、女王であり……それらが色濃く混ざり合い、強いオーラとなって迸り出ているのが安藤美姫の魅力である。

 どこまでも透明で美しい、夢のような存在の浅田真央。

 美しい絵の具で色濃く描かれた、現実の安藤美姫。

 妖精のお姫様と人間の女王。

 どちらにより憧れるかは、好みによるだろう。
 私としては、女子フィギュアに求める理想―「おとぎの国のお姫さま」である浅田真央の方により惹かれるが、無論、どちらも稀に見る素晴らしい存在であることは疑いようがない。二人の演技を多く目にする機会に恵まれたことは、とても幸運なことだと思う。

 今のところ浅田真央はジャンプの修正中にあり、残念ながら今季に入ってからは、まだあの素晴らしい演技を目にできずにいる。でも、来年になればきっと、夢のような「おとぎの国」へと連れて行ってくれるだろう。

 そして十年たって、今活躍している選手が皆引退してしまったあとも、あの「妖精のお姫様」は変わらず心の中に舞い続けるだろう。

 女子フィギュアの魅力は何か。それは浅田真央をみればわかる。浅田真央こそは女子フィギュアの結晶、理想そのものなのだから。

 

 

 

2010.12.12

 

 

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