読書感想文

 

 今は、ここで色々な作品の感想など書き散らしている私だが、昔は「読書感想文」が嫌いだった。…いや、たぶん今でも「書け」と言われたら嫌だろうと思う。

 まず、「読書感想文」というのは指定枚数が決まっている。小中学校では三枚だったが、はっきり言って、そんなに書くことがない。「面白かったです。終わり」と、一行ですませたいところを、三枚も書けというのだ。……一体何を書けと?

 「どこそこの部分が面白かった」といま少し具体的に記したとしても、たぶん一枚に満たない。何より、それだけでは「感想」とは呼べない。それで、「どこそこの部分で主人公はこれこれこのような行動をとった。普通、なかなかできない行為であり、たいそう感動した。少しでも見習いたいと思う」といったような内容のことを、書く羽目になる。……ここまで書くと、なんだか、自分が大嘘つきの偽善者、口先だけの詐欺師になったような気分になる。しかし、これだけ飾り立てないと、規定枚数に足りないのだ。

 仮に、本当に心底感動し、心から主人公の行動に尊敬の念を抱いていたとしても、このように飾り立てて書くと、せっかく心に抱いた純粋な感銘が、虚飾の言葉により踏みにじられるような気がしてならない。そんなことが、実際にあった。だから、読書感想文は、苦痛意外の何物でもなかった。

 田中芳樹氏も書いていたが、「人を誉めるときは『いい人だね』の一言で終わるけど、悪口なら一晩もつ」のである。人に限らず、何かを誉めるのはなかなか難しい。心底賞賛したいと思い、それに言葉を尽くせば尽くすほど、それは嘘八百に聞こえてくる。だから一言で済ませようとするのかもしれない。……それなのに、一冊の本について、三枚も書け、というのだ。

 それでは、悪口を書けばいいのではないか。つまらない本を取り上げて、それの短所を書き連ねていけば、3枚ぐらいにはなるのではないか。……今ならそう思うのだが、当時は、なんとなく、それはしてはいけないことのような気がしていた。小学生の頃は、本に書いてあることは全て正しいことなのだと思っていたし、だからつまらないとか批判的なことを書いてはいけないとなんとなく思っていた。そして、「読書感想文」はきちんと文章で記すものだから、本音を書くのではなく、ある程度形式にそって書かなければいけないものだと、これまたなんとなく思っていた。この場合の「形式」というのは、「面白かった」「感動した」「登場人物の勇気・優しさなどの美徳への賞賛」などといった姿勢を基本に据えることである。無論そうなれば、嘘八百にしか思えない美辞麗句を並べざるを得ず、これにはたいそう抵抗を覚える。

 では、他作品との比較はどうか。これなら過剰な美辞麗句を用いずとも、具体的に誉めることができる。…だが、これも当時は思いつかなかった。対象とする本は一冊でなければならないと、これまたなんとなく思っていたせいもあるし、書評というのをあまり読んだことがなかったせいもある。……思い込みとは困ったものだ。人は、そのつもりがなくとも、知らぬ間に様々な思い込みをし、視野を狭め、結果として損をすることになってしまう。

 しかし、中学校では「本には常に正しく真面目なことが書いてある」という思い込みを覆すものを何冊も発見したため、それまでとはやや違う姿勢を取ることができた。以前、別のところでも書いたが、そこで「文庫本」を知り、「軽い文体の本」などの存在を知ることにもなったのである。

 それで、中学一年の頃、もっぱら読んでいたのは星新一だった。「ショート・ショート」の名人で、彼の本には後書きにも解説にも「解説不要」「後書き不要」と書いてあることが多かった。実際、書きようがないのだろう。解説は、星新一の作品が発表された経緯など、どうでもいいことをくどくどと並べ立てていることが殆どで、それまでに読んだ他の多くの解説と同様、「解説とはつまらないものだ」という思い込みを裏付けるものだった。だが、そんな中にあって、私は、「解説とはつまらないもの」という固定観念を覆す解説にいくつか出会ったのである。よくあるような硬い文章ではなく、かなり砕けた文体で、「夢中で読んで、歯痛も飛んでいった」と私的な感想を述べていたり、「この作品の解説は私には無理だ」と言い訳を述べていたりする解説に。……これは、当時の私には、かなりの衝撃だった。本とは、解説とは、真面目なものではなかったのか?特に解説は、「真面目に書くこと」がポイントで、面白さなど意に介さないものではなかったのか?それを、公の出版物で、「書くのは無理」と堂々と述べているとは……。でも、その方が「真面目な解説」などよりよっぽど面白い。この時、私は、自分の様々な思い込みに気付いた。そして、それに気付いた私は、早速それを読書感想文で生かすことにした。

 ……すなわち。「公の出版物でやっているのだ。たかが学校の感想文でやって悪いはずはない!!」ということで、「読書感想文を三枚も書くのは無理だ」というようなことを、規定枚数分だらだらと書いて、提出したのである。正直に書いているので、それまでのように良心の呵責を覚えることもなく、肩の荷が下りた気がした。また、幸いに……というのか、先生からも何も言われなかった。

 これに味をしめた(?)私は、次の中学二年の時には、指定図書ががないのをいいことに、「『読書感想文』の『書』は一冊の本であらねばならぬということはないだろう。多数の本を取り上げて、それに少しずつ(たぶん2,3行)感想を書いていけばOK!」ということで、色々な本を引き合いに出し、無事規定枚数を達成した。この時も、先生からは何も言われなかった。ちなみに中学3年の時は、これらの複合型をとった。せっかくだから、何か新しい手を試してみたかったのだが、残念ながら、「これは!」という斬新な手は思いつかなかった。

 こうして、ひとまず読書感想文については解決したかのように見えたが、高校で再び問題になった。高校では規定枚数が五枚、しかも指定図書がある。読書感想文は、「指定図書をちゃんと読んだか」確認されるためのものでもあるだろうから、これまでのような手はちょっと使えない。また、指定図書となった本は、どれも面白くなさそうなものばかりで、「指定図書を全部読んで、ちょとずつ感想を…」というわけにもいかなかった。これは苦しい。しかし私も、小学生の時に比べ、様々な手法を知っている。作品の描かれた背景も考慮に入れて考察する、迂遠な言い回しを多用する、などの手法をフルに使い、なんとか規定枚数に届かせていた。……大学のレポートより、ずっと大変だったような気がする。

 さすがに大学以後は読書感想文などはなく、この忌まわしいものから私は解放されたわけだが、そんな今になって、なぜか様々な作品の感想を書いていたりする。これは、全く苦痛ではない。いや、むしろ、書かずにはおれないのだ。感想の中には、つい長くなって、当時の規定枚数を軽く越えているものも少なくない。なのに、「読書感想文」よりもずっと楽だ。これは恐らく、様々な制約(真面目に書かなければならない、規定枚数に到達しなければならない、漫画やアニメは除外する、など)が課せられていないことが大きいだろう。多分、読む側も、制約の課せられた読書感想文より、制約のないネット等で様々な感想を目にする方が楽しいのではないだろうか。誰からも歓迎されない読書感想文……その存在意義が、謎である……。

 

 

2004.1.28

 

 

 

戻る

 

 

inserted by FC2 system