神様は陽気なおじいさん

 

 ユバールの民は、神を復活させるべく、放浪の旅を続けていた。

 過去の世界で魔王を倒し、魔王による被害の心配をする必要がなくなったためか、復活の祭壇が再び現れたーわけだが、ようやくとり行われた復活の儀式で現れた神はニセモノ。

 しかし、人間にあがめ奉られて喜んでいるのだから、オルゴ・デミーラも悪趣味というか、器が小さいというか……。

 だが、その後の旅で、精霊には出会えたものの、結局神が姿を現すことはなかった。

 …やはり神はもう、本当に滅んでしまったのだろうか?

 しかし人間は、もう神がいなくても苦難を乗り越えられるー

 という雰囲気のもと、とりあえずエンディングを迎えたわけだが、それでもやはり、神のことはずっと引っかかっていた。

 それがまさか、あんなところで出会うことになろうとは……。

 それも、オルゴ・デミーラをはるかにぶっちぎる強さである。もはや魔王を倒すことなど、赤子の手をひねるより簡単だろう。

 普通ならば、『生きていたなら、そして、そんなに強いなら、なぜ儀式の時に現れてくれなかったんだ……』などと文句の一つも言いたいところであるが、ここに来たときは、主人公一行も、既に魔王など眼中にない状態であるし、時間を超越した神には主人公達が魔王を倒すこともわかっているのだろう……ということで、そんな気は起きなかった。なにより、あの神を見ていると、そんなふうに真面目に抗議するのがばからしくなってしまうのである。

 皆が復活を待ち望んだ神―その実態は、現役を引退して隠居生活に入り、暇をもてあまして冴えないギャグを連発し、若者で遊ぶのが大好きな、ただの陽気なおじいさんであった。

 確かに強いのではあるが、陽気にステテコダンスなど踊る神を見ていると、このような相手の力にすがろう……などと考えたこと自体が間違っていたような気がしてくるのだ。

 ひょっとして、かつて魔王に敗れたのも、いっぱつギャグやステテコダンスを連発したためではないのか?

 一向に通じないので、

「くうっ。みんなに『ゆかいな神さま』と呼ばれたこのわしの時代は終わったということか……」

と落胆し、一回攻撃しかできずに敗れたとか……。

 この神を見ていると、ありえない、とは言えない。

 こうなると、メルビンのステテコダンスも、神直伝だったのではないかと思われる。

「ステテコダンスが踊れたら、神の戦士と認めよう」

という仕組みになっていたりとか。魔物が現れたら、みんなで一斉にステテコダンスを踊り出す……結構コワい光景かもしれない。

 ところで、神との対戦では、この二つの攻撃を含め、ジゴスパークなど、普通よりもかなり運が重要な要素となっている。

 一見、運は神に関係しているように見えるが、実は、運は自分でつかみ取るもの、神とは無関係……ということを示しているのではないかというのは、考えすぎだろうか。

 それにしても、気の毒なのはユバールの民である。これまで一体何のために、厳しい生活を強いられてきたのか……ジャンなど、結婚をあきらめる羽目にまで陥ったというのに。

 神がいなくても何も問題はなかったとすれば、あまりにも……。

 だが、ひょっとすると、ユバールの民の役目は、まだ終わっていないのかもしれない。儀式は大地のトゥーラが光るとき(と、いうような内容だったと思う)に行われることになっている。現代では、これを「夕日の沈む頃(=夕日を浴びて楽器が光る)」と解釈して儀式を行い、偽の神が降臨したわけだが、実は、この解釈は間違っていたのではないか。実は、過去の解釈の方が正しかったのではないか。

 引退した神は、人間だけの力では解決できない事態に陥ったとき、大地のトゥーラが光るようにしていたのではないか?今回は、神の力を借りなくても(精霊の力は借りたが)解決できることだったので、トゥーラは光らなかったのではないか?

 だとすれば、ユバールの民は、今後起こるかもしれない非常事態における非常ベルとして、存在することになっているのかもしれない。(もう一つの可能性もあるが、それは最後に述べる。)

 でなければ、納得しがたい。なんといっても、キーファは、そのユバールの民について行ったのだから。神に人間が勝手に期待を寄せていただけ…という側面も確かにあるかもしれないが、大地のトゥーラは実在するし、「ユバールの言い伝え」にはある程度、神の意志があったものと思われる。でも、もしそれが必要なことだったとしても、キーファ……行かないでほしかった。

 ところで、偽の神が降臨した時、世界中の人々は、神が復活したのを確かに感じたと言っていたが、あれは何だったのだろう?

 単なる気のせいだろうか。人間、思いこみだけで、病気が治ることもあるという話だし。それとも、この「復活の儀式」がその場にいない人々にまで感銘を与えたのだろうか。あるいは、魔王が細かいところまでそのような細工をしていたのだろうか。でなければ、ひょっとして、この時隠居してウトウトと眠っていた神が目を覚ましたとか……(笑)。

 この辺りもどうもはっきりしないが、復活の儀式のせいだといいなあと思う。もしかすると、この復活の儀式で復活する「神」とは、あの「神さま」ではなく、「希望」のようなものを表していたのかもしれない。芸術によって人々の心に希望を与える……それこそが、ユバールの民の使命だったのかもしれない。そうであることを願いたい。

 

 

 

2003.10.7

 

 

 

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